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2019年05月21日 (火) | 編集 |
ルカ福音書
7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

ーー
イエス様は、あなたの信仰があなたを救ったと、
仰いました。
救われるには、信仰がないとだめということ。

それは人に見せるための信仰ではなく、
神様と、イエス様を、愛して求めることです。
自分に必要な神様なら、求めるし感謝もするし従おうとします。

救われたい。とか、悩みをなんとかしたい、
死んだ後の平安がほしい。など、
人によって救いの感じ方、求め方は違うでしょうが。

自分の罪を棚に上げて、、
人の罪にばかり目を向けてるのは、、
自分の方が、罪が軽い、と思ってるわけで、。

そういう人は、罪の自覚が、薄いから、
神様への感謝も、求めも薄いし、愛も薄いのでしょう、。
人よりも、、自分こそが、重罪人なんですけどね、。

自分には甘いのですよ、、。
人って、、人には厳しくて、自分には激甘、。
そういう人だらけです、。
公平に見ないからね、。苦笑、。

公平に見るには、、自分の奥深い罪を知り、思い知ることよ、。
自分こそが、悪党の頭で、とんでもないやつだと、。
心の奥の、ドロドロしたものを見たら、、
自分は清い、罪がない、なんて口が裂けても言えないから、。

罪の自覚を得て、悔いて、自分は人のことなんて、
断罪できないって思い知って、、
神様の御前にへりくだるとき、、罪は、すでに赦されている、。

悔いて、心から血を流したことが、割礼となって、
神様の哀れみを受けれる、。

あの人より、この人より、自分の方がマシ、、なんて
傲慢な心で、思ってる人ほど、、罪深く、罪
が赦されないまま残っていく、。

この罪の女は、マグダラのマリア、ベタニアのマリアのこと、。
二人は、同一人物、。
ベタニアのマリアは、イエス様が家に来るたび、、
イエス様の話に聞き入り、聖書をb学んでいた、。

弟子たちより、はるかに多く、。
彼女は、、イエス様に香油を注いだ。
王に油を注げるのは、大祭司か、預言者、

アロンの血筋、、最低でも、レビの血筋でないといけない、。
イエス様は、駄目と仰らなかったのだから、。
マリアは、レビもしくはアロンの血筋で、
彼女は祭司の娘。

だから、幼いときから、聖書は幾度も読んで知っていた、。
イエス様の話も、弟子たちのように、なんでですか?と、聞くことなく理解できていたし、。

泣いて涙を流したのは、イエス様が十字架にかかるということを前もってマリアは、知っていた、。

辛くて、辛くて、、せめてなにかしたいと、考えて、、
イエス様のために用意してあった
香油のすべてを、、イエス様のために使った、。

香油をつかうべき相手であったイエス様が、取り去られるのだから、、香油を、取っておく必要はないと、マリアは思ったのでしょう、。
でも、ユダは、イエス様は死なないと、、
神様の子だから、メシアだから、、きっと窮地に追い込まれたら、自分の命を救うために、神通力を使って、敵をなぎ倒すに違いない、と、

イエス様を、誰よりもメシアだと信じていたのは、
イスカリオテのユダ、。

ユダは、最後の晩餐の時、イエス様は、彼と同じ器に、パンを浸して彼に食べさせた、。それは、イスカリオテのユダが、イエス様の隣に座っていたということ、。

当時は、寝そべって食事をしていたので、イエス様の隣にユダが居なかったなら、イエス様は、ユダにパンを与え食べさせることは出来ない、。

また、自分を裏切って、殺そうとしてる人を、自分のすぐ隣に座らせることはしない、。

ユダはイエス様を憎くて殺したくて、裏切ったのではなく、
ユダのメシア像は、、武力を使ってでも、イスラエルを解放する強さを持ったメシアだった、。

イエス様の愛による教えが、ユダにはわからなかった、。
最後まで、。ユダは、しまった、、と、後悔はしたけど、悪いことをしたとは、思ってなくて、悔い改めず、改心はしていない、。

自分で思ってたのとは違う結果になって、イエス様が、大人しく殺されることが、ユダには、どうしても、理解できなかった、。
なんで?どうして、やつつけないんだ?簡単に出来ることなのに、。敵なんだから、滅ぼせば良いのに、。と、。

ユダは、悪は滅びよ、の思考で、メシアも、そうであると思っていたのでした、。

あてが外れて、、自分のせいで、イエス様が死ぬのを見たくなかったユダは、、即座に自殺しました、。
マリアは、、ユダを憎んだでしょうね、。
身勝手なユダのせいで、イエス様を失ってしまうのだもの、。

私なら、そう出来得るならば、、、
ユダに、回し蹴りを入れたいくらいですわ、。
目ぇ、さませ、イエス様を十字架に
追い込むことが正しいのか?と、言いたい、。

ユダが、イエス様を憎んでたわけではないことを、イエス様はご存知だったから、ユダを、いつもと同じように晩餐の時に自分の隣に座らせたし、愛し信頼していたから財布も預けていたし、、どこに行くにも、連れて行ったし、裏切られて追い詰められることをされても、、友よ、、と仰った、。


ルカ福音書
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

神様だからということ、義務で、救いを与えるようなことはなくても、、、必死に救いを求めるものには、、与えられる、。
必死に救いを探すものには、、与えられる、。必死に、救いの門であるイエス様を求め続けるものには、、救いの道は開かれる、。

壊すくらいに、、門を叩いて御覧なさい、。
しつように、真剣に何度も何度も、何度も求めて
求めて、、頼めば、必要なものは何でも与えてもらえる。

私とて、、何度、泣いただろうか、、
死にたいの、、と、、もう、生きてたくない、、と
幼い頃から、、幸せだと思えず、、死んでしまいたいと思っていた、。

勝手に死んだらいけない、、なんで、、みんな、私のこと嫌いだよ、。誰も愛してくれないの、。お母さんもお父さんもね、。
私一人ぽっちなんだよ、。
それでも生きないといけないの、。

ねぇ、、神様ホントにいるの?居るのなら、会いたい、。
そばにいたいの、。神様のそばにいたら、、寂しくないよね、。
神様いるの?どこにいるの?どこに、、、
居るなら、会いたいの、。
って、、願い続けてきた、。

ずっと、、ずっと、。洗礼を受けてからも、
心のどこかで、、神様、、と言いながら、
救われてない自分を、感じてたから、、

神様、、会いたいの、。そばにいたいの、。
離れたくないの、。どうしたらいいの?
はなれないでいることなんて出来るの?
出来たら、そうしたい、。離れたくないの、。
と、、想い続けていた、。

救われてからは、、お父さんに、愛されてる、。
私はなんて果報者、。神様が、お父さん、。
イエスさまも、一緒、。これ以上の幸せは無いわ、。と、

いつでも、にこにこ、幸せいっぱいです、。
この世的には、お金もないし、生きていくのは辛いこともあるし、苦労もあるけど、、心は、、幸せなの、。

私は、永遠の宝物を手に入れたから、。
心で、、、温かい神様の想いを、、感じ取れる、。
生まれる前から、、神様に愛されて居たって、、思えるから、、。

そんな前から、神様が一緒に居て下さってたんだもの、。
幸せ以外いえないっしょ、。

幸せです、。
こんな、取るに足らない私と、共に居てくださったなんて、。
父様を知るはるか前、、生まれる前から、ずっと、
私が、生まれるための準備をし、、生まれさせて下さってたのだもの、。

私なんかが、、、、約束の娘、誓いの娘に、限りなく近い、。
ありがたくて、涙しか出ない、。
命かけて、魂も霊も全て捨ててでも、父さまとイエスさまに、お仕えします、。永遠に、、。

それが、私の出来る、、ほんのわずかな恩返し、。

マグダラのマリア


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2019年03月25日 (月) | 編集 |
『マタイによる福音書10:14から
あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。』


イエス様は十二弟子が伝道に出かける時に、
教えが受け入れられない場合、その家や街から去る時に、
足の埃、塵を振り払うようにと仰いました。

足の塵を払うことは、
元々はユダヤ人が異邦人を軽蔑して、
その場所から離れ去るときに行う行為でした。

ユダヤ人たちが異邦の地から自分の国に戻る時、
異邦人の穢れを落とすために、イスラエルへの入国時に、、
自分の足の塵を払い落としたこが、この習慣の始まりのようです。

ユダヤ人にとっては、豚も犬も穢れた動物でした。
それでユダヤ人は異邦人を穢れたもの、、、、
者ではなく、、もの、、ですよ、、。
人以下と見て、、犬と呼んでいました、、。
思い切リ差別してましたね、。


イエス様は、、血筋的にはイスラエル人であっても、、
イエス様の言葉を受け入れない心の頑なな人を、
足の塵を払うベき人、異邦人、穢れた者、罪人となさいました。

イエス様の救いは、血筋を越えた救いだからです、。
血筋で、清さを決めた旧約の時代の選びは終わりました、。

イエス様は、血筋で、判別する、、
そんな差別的なユダヤ人の社会で、、、
病人や異邦人だからといって、、、
穢れた者や罪人、いかにももののように、、
蔑んで扱う事を、、拒否なさいました、、。

主イエス様は罪人と言われて蔑まれてきた病人や異邦の民と、、
すすんで友となり、食事を共になさっていました。
彼らを、、人として、遇したのでした、。

これは、選民だから清いとすることが、
神様の御心に適っているのではないことを示しています。

サマリア人は、もともとユダヤ人と同族です。

選民だからと心奢らず、神様の御心を求め、
御言葉に聴き従いたいと願い、
神様の御心に添いたいと願う気持ちがあるかないかが大切で。
それがないのなら、自分が、罪人と、蔑む人たち以下のもの、として、
父は、、、処遇なさるでしょう、。


主イエスはこうも仰っていました。

『「(自分が)丈夫な人(と思っている人)には医者はいらない。(医者が)いるのは(自分が)病人(だと知っている人に)である。」』と

自分が病人(罪人)だと知っている人は幸いです。
癒し主の医者であるイエス様は、
病人だと知っているあなたを憐れみ癒して下さるからです。

本当に足の塵を払われるべき人とは
自分が病人(罪人)だと、仮に知らなくても、
知っていたとしても、、それを認めれない傲慢な、、人のことです。

追記
清い人が、救いを与えていただけるのか?
罪人に、、ではないのか?
かけらでも、自分が清いと想うなら、、
どうして神様の救いを必死に求めれようか、。

罪人で、どす黒いあくどい人間だからこそ、、
神様を、切実に求める、。
自分にはないものを、与えて頂きたいと、、
切実に乞うるしかないのだから、。

古い自分に死んで、、、新しい自分を得るしか、、
変わりようがない、。
生まれ直すに、、楽な訳がない、。
自分に死ぬには、、自分の悪を認めて、
心が押し潰れるのが、一番てっとり早い。

死ぬほど苦しいけど、
確実に霊的に生まれ変われる、、。

マグダラのマリア


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2019年02月22日 (金) | 編集 |
マタイ
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 
人は、、本来、愛の顕現者であるべき、。
唯物論、物欲主義に、呑まれて、、堕落して、、
自分のすべきことを忘れ去る、。
 
そうして、地獄に行ったり、行かずに済んだとしても
新生輪廻を繰り返す、。
輪廻の輪にとらわれて、、神様の御元へ行けないまま、。
 
地獄以外の霊界へいけば、、
下層の霊界、普通の天国でも、、
神様のことは、愛情深い、、御存在として感じ取れるけど、、、
 
神様の御側、、本当の天国は、、天界と言うのかな、・
神界というのかな、。ワンランク上の霊界とは、、
神様の感じ方が、、段違い、。
 
とてもとても高次の御方だから、、
ひたすらへりくだるしか無いくらいに、、
広大無辺で、、ただただ尊く、畏れ多い、、、
としか人には、、思えないのだと、、
愛の波動も、、もちろん半端ないわけだけれど、。
 
人の感じえる五感を超越して、、
ともかく、畏れ敬うしか無いくらい、、
人との格差、隔たりを感じる、。
 
本来は、、そのくらい、人間とかけ離れているのが、、
神様なんだけれど、。
人の原罪のせいで、、人の次元が堕ちてるから、、
神様と波長があわない、、のよね、。
 
人間自身が、、ネガティブな自分を捨てて、、
神様に愛されてる本来の自分を取り戻さないと、。
神様は、、人のことを愛して愛して愛し抜いてくださって、。
人は怯えたりしなくて良いのだけど、、
罪があるから、、神様をおそれてしまうのね、。
 
罰が怖い、、って、。
 
その恐怖感は悪魔が、、煽ってるのよね、。
もう、なにしても駄目だよ、、手遅れだよ、、って、。
私はそれで、絶望した、。
 
絶望させて、、神様に救い求めても無駄だよって
想いこませるのが悪魔の手、。
 
悪魔の邪魔、、人を愛そうとしたり、、
大事にしようとしたり、
神様に従おうとしたり、
なにか大きなことをするときに悪魔は邪魔する、。
 
悪魔の邪魔は、、
神様や、家族や人のためになることをしようとすると、
諦めさせようとして、、
悪い事の連鎖とか、、アクシデントが起きて、、
うまくいかないようにされ続けるとか、
なにかが起こったりする、。
 
でもねぇ、。
そういうの心を動じずシカトするのが、、
良いのだって、、、。
心の動揺が、意気消沈させることが、悪魔の狙い、。
 
やる気を削ぐことが目的だから、。
良いことを、やるって決めたら、、
頑張って邪魔が入ってもやり遂げましょう、。
 
小さな事からでも、、愛の顕現は出来るのよ、。
 
人の優しい言葉をかけたり、、思いやったり、。
こっそりと祈ったり、。愛を、自分自身と、人に満たすことで、、
誰かを元気にできる、。
 
みんな、愛されたい、優しくされたい、、と、
心の中では思ってる、。
とくに、、子供は、、愛されたいと思ってる、。
愛され方が足りないと、、子供は、、情緒不安定になるね、。
 
自分から、、愛せるようになるには、、
愛せない自分を痛烈に自覚したら、、いい、。
自力で愛そうと思うと、、私利私欲が絡んで、、
神様からの力を戴けないのよ、。
 
自分の我、、、というものに遮断されてしまうの、。
自分が愛せないと嫌という程、自覚したら、、
神様に愛させて下さい、、とへりくだって、願うでしょ、。
 
すると、、あら不思議、、愛せてしまうのです、。
自力じゃないからね、。
神様の愛されている人、、、だから、、と
神様を真ん中に置くから、、
仮に自分が嫌だ、、と想う人でも、許そうと想う、。
 
多少生理的に嫌いだな、、と思っても、、
毛虫やゴキブリレベルで嫌って、
存在しないで、、死んで、、とは思わないで済むわけ、。
 
お前の席、ねーから!って流行ってるみたいね、。
 
人類全員分の席が、、神様の国、天国には用意されてる、。
いつ、その席に座れるか、、の違いはあっても、。
 
神様は、、偉大ね、。
人類全部を、、
この世の終わりまでに生まれる人全部を愛しておいでだから、。

 
イエス様は、、はてしない愛を持つ御方で、、
イエス様の愛の波動は、広く、、遠くまで、、届いて、
信じすがる人を癒やし救われた、。
 
アダムとエバ、
本来一つだったものが、、2つに分かたれて、
再度一つになるのが、、結婚、。
 
運命の人と、、一つになる時、、
創世の時、と同じく、、完全なる愛で、結ばれて、
夫婦は一体となって、神様の子としての人間(ひと)、、となる、。
 
その時は、、罪から救いを得た以上の
歓喜を得るのでしょうね、。
 
運命の人と、一つになるということは、。
特別なこと、、魂が融合するが如くに、、愛を通じて
心も一つとなることだから、。
 
生きてる間に、、運命の人と、出会える人は幸せです、、。
出会えて結婚出来る人は、、もっと、幸せです、。
 
神様の最上の人への贈り物が、永遠の命と愛、、ですね、。


マグダラのマリア



 

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2019年02月21日 (木) | 編集 |
自分を捨てる、。
難しいね、。

自分可愛いが本音、。
自分が辛くないほうが良い、、が本音、。

マルコ
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

弟子たち以外、、群衆にも教えられた御言葉、。
これね、、誰でも実践可能、、ってこと、。
特別に選ばれた人、、じゃなくても良いのよね、。

自分を捨てる、、これは、、自分の我、、
自分がこうしたいと自己中思考で思うこと、を
我慢しなさい、捨てなさいということ、。

今とは違う人を愛そうとする自分を、、
新しいソフトを自分にダウンロードしたみたいに、、
自己中な自分の思考や行動を改めること、。

自分の十字架、、
これ、嬉しくないことでもするってこと、、、
嫌いな相手でも、憎み続けない、、。
簡単に言えば、自己中な自分の思考に固着しないこと、。

執着するなら、、良いことで、執着する、。
愛し切ること、、大事にすること、、思いやることとか、。
悪い思考で人に執着しても、良い結果には結びつかない、。

そーいうのは、ストーカー行為だし、、
愛がない、迷惑行為でしかないから、、
人生、悪い方に悪い方に転がり続けていく、。

愛がある行為とは、、誰かを確実に愛し幸せにすること、。
不特定多数に、メッセージ送って注意喚起したって、
単なる自己満足で終わってたりする、。

身近な家族、、夫婦、親子、兄弟姉妹、友達、同士などで、、
愛し合う、という愛情を育てる経験が何も無い人がね、。
神様の愛を語っても、、机上の空論、。

親子愛、、夫婦愛、兄弟愛、隣人愛、友愛、、
人同士の愛が、何一つ理解できてないものが、、
どうして神様の御愛が理解できるだろうか、。

人同士の愛は、、
神様から、原初与えられたもの、、。
一旦はサタンに奪われたけれども、、

親子愛は、、アブラハムとイサク、
兄弟愛は、ヤコブとエサウ、ヨセフとヤコブの子ら、。
夫婦愛は、、御母マリアとヨセフ、イサクとリベカ、
友愛は、、ダビデとヨナタン(ホントは兄弟愛)

聖書の中で、、イエス様以前に、、多くの人が、
愛を信仰により実践しています、。
未熟だから不完全だから、愛せないだの、出来ないだの
言うのは言い逃れというものです、。

聖書中で、書かれた人たちは、、今の私達人間と同じ、
赤い血の通った人間ですから、、。

彼らが出来て、イエス様の原罪の赦しの中にある現代の人が、
愛の実践がまるで出来ないわけがないのです、。

ようは、やらなきゃと、、決める意思力がないから、
そんな怠けた理屈をこねる、。
十字架を背負うくらいの気概で、
愛そうと努力すれば、大抵のことは出来る、。

どうしても、難しい部分は、神様にゆだねるしかないけれど、、
自分で努力出来る範疇は努力し尽くすべきです、。
神様は、自助努力しないで、
棚ぼた待ってる人に祝福を与えるほど甘くないって、。
出来る限りの愛の実践の努力はしないといけない、。

身近な、家族、、
夫婦、親子、兄弟姉妹、友達、、への
愛の実践が出来て、から、、隣人愛へ、、、です。

家族大事にしてないのに、、赤の他人愛せるわけないでしょ、。
愛してますよ、、なんてね、、
綺麗事言いなさるな、。

前も書いたことあるけど、。
昔、私に、霊的に見たら醜い姿の貴女のことも愛してますよ、、と
言ってきた人が居たけどね、、。

その人が、私にしてきたのは、、霊的な攻撃だった、。
で、捨て台詞が、、熱が出るけど我慢しなさいと、。
熱どころか微熱も出なかったけども、。

私の心、、心の鏡に写った、自分自身に攻撃して、
自分自身に自分自身が放ったものが返ったのでしょうね、。

私のせいじゃないからね、。
にこにこ、。
悪意ある霊的攻撃は、、受け取りません、。
私は、、守られてるから、、、。

コレと同じことが、、ごく普通の人でも、、起こります、。

その時点で、その人が何もしてないのなら、、
何も悪くないわけで、何も悪くない人に、悪意を込めて悪態ついて、
怨念投げつけても、、怨念を投げつけた自分自身に反るだけです、。

自分で、自分にマイナスエネルギーの爆弾、
倍にしてぶつけ続けてるようなもの、、。

人へ悪念や怨念を投げて自分に戻る時は、、因果律にしたがって、
呪詛と同様の扱いになり、最低でも倍返し、。

まぁ、身体が、次第に、ボロボロになって具合も悪くなって、
運が悪いと寝たきり状態になるかもです、。

人に悪念怨念とかのマイナスエネルギーぶつけるのを
自己反省してやめたら、身体の不調も、、
かなり改善するんじゃないのかな、。

継続して怒り続け憎み、恨むのは、、呪詛と同じだからね、、。
どんな理由があろうと、父は、是とはなさらない、。
私自身、、呪詛のように憎み呪ったことへの
言い訳できるだけの要素は十分にあった、。

でも、聖書の規定に照らせば、有罪なわけ、。
心の中で、人殺ししてたというのが、わかったときに、、
ゾクッとして、そのまま罪の重さで、ぺったんこ、。

言い逃れする余地なかった、。
心で犯した罪も、手足を使って犯す罪も同じ、。
この世的に、罰を受けないで済むというだけ、。

口に入るものは人を汚すことはない。
かえって、口から出るものが人を汚すのである、。
これね、、口から出るものは、、心から出すのよね、。
だから、、心から出るものが、罪のもと、、なのよ、。

特に言葉は、心から出るものだから、、。
怨念タラタラ、悪念タラタラの記事書いたり、
人への悪態ばかり口に出して喋ってると、、、自分自身を有罪にするわけ、。

心の中に、新しい自分をダウンロードしましょう、。

愛に満ちた清らかな自分を、、、神様から頂いて、、ね、。

自力では、どれだけ頑張ったって、、
自己中な想いしか持てない、。

愛の実践を通し、神様の子としての証を神様に向けて立てて
聖霊のとりなしによって、、神様に心つながることで、、
人は変われる、。

洗礼を受け聖餐を受けたなら、、
もっと、劇的に変われるはずよ、。
己が罪を知り、死ぬほど悔いて神様と出会い
原罪からの解放、救いを得たならば、。

神様に喜んでいただける自分でいたいと、、
望むから、。
愛してくださる御方に恥じない自分で在りたいと
思うから、。

一生懸命努力できる、。

イエス様に、、豊かに赦し愛された分、、
神様を、、心から慕い愛したいと、、心から想う、。
私なんかを、愛してくださったから、。

神様に私は愛されて居るという実感があるから、、
そのことで、心は満たされて平安だし、、
子供に色々教える時間だけ与えて頂ければ、。
今すぐ帰天しなさい、と言われても、はいと言えます、。

生きることも、死ぬことも、、神様の言うとおり、。
何の不安もないもの、。

死んだあとのことも、、
肉体なんか、、ただの抜け殻だから、、
焼いて骨にして、、散骨でもいいし、、
お墓も別に維持しなくてもいいし、。
葬式もしなくてへーき、。

お坊さんの読経無くても、
私、勝手に神様の御元に一旦は還るから、。

イエス様と、、こっちに居たいから、父さまからお許し頂いて、
また戻ってくるつもりだけど、。

人間として、新生輪廻して生まれないと駄目なのかしらね、。
マグダラのマリアが、、生まれつきではないけど、、
途中からにしろ、私の中に新生輪廻してきてるわけだし、、。
彼女と一緒に、、私も、、かなぁ、。

私は、、もう、私というアイデンティティ、、
自我は、基本的に無いものとして扱ってる感じ、。

なんでも神様の言う通り、が基本思考、だもの、。
私の想いより、、神様の想いのほうが大事、。
神様の手足の一つになれるほうが、、私は良いのよ、。

マグダラのマリア

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2019年02月15日 (金) | 編集 |
自分の心、、本心を見つめる、のは大変、
見つめて、出てきた、それを、認めるのは、もっと難しい、。

イエス様にファリサイ人たちは、色々と食ってかかります、。
安息日にしたら駄目なこと、あれこれして!!
御飯食べる前に、禊もしてないし手を洗ってない!!って、。

律法破りしてるから、、信じないほうが良いと、、
回りの人に見せるため、人への悪意があって、そうしてた、。

その人を、間違いをしてるから、
立ち返らせるためとか、バチが当たらないように、、とか、
心配して、、、、じゃなくて、、

嫌い、というか、、自分たちにとっては
イエス様の方がアロンの血筋で、血筋的な権威が上で、
邪魔だったからなのね、。

人というものは、、建前はきれいごとを言うけど、、
本心は醜いものです、。
その本心を、見つめるのは難しく、認めることは、もっと難しい、。
でも、その汚い本心を見つめ、認めれないと、
罪の何たるかはわからないし、自分が悪を行ってるとも、わからない、。

悪がわからなかったら、善も何だか、わかりはしないのです、。

さて、話を戻して、イエス様が普通のレビなら、、
まだ、下っ端のように扱えたけど、、、、
大祭司アロンの血筋で、レビの中で一番上だから、、
おまけに聖書のことも、自分たちより知識があって、、。

教え方にも権威がある言い方をしていたから、
彼らは、よほどのことがない限り表では黙っていた、。
民衆には隠れて裏で、悪巧みをするしかなかった、。

そりゃそうです、、公生涯以前から、イエス様は、ユダヤのお宮で、
祭司ザカリアの子として、別の名前でラビとして、、教えていたのだから、。

マタイ福音書
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

イエス(イエシュア)です、、と
なぜ、弟子たちは言わなかったのでしょう、。

イエス様の名前、、ヨシュア(イエシュア)は、
御母マリアと養父ヨセフが名付けた名前です。
天使にそう名付けるように言われたから、。

イエス様の肉的な父であるザカリアは、
イエス様をヨシュアと名付けるように、と、お告げを受けていません。
ヨハネのことは、ヨハネと名付ける様に天使に指示されていますけど、。
ザカリアも、イエス様の父親であったので、、、
イエス様に名付ける権利がありました、。

ダビデには、2つの名前がありました、。
ダビデ、、とヤイルの子エルハナン、、。

詳細は、こちらの過去記事に書いてあります、。

イエス様の雛形であるダビデに2つ名前があったように、、
イエス様にも、名前が2つあったのですね、。
だから、弟子たちは、ナザレのイエスです、と答えなかった、。
エリヤとかエレミヤとか、、別の名前のほうを答えた、。

イエス(イエシュア)という神さまゆえの神名はあったけれど、
ザカリアがつけた別の名で、肉の実父ザカリアの元で祭司の学びをし、
30歳になってから、、
義兄ヨハネとヨルダン川で再会して、、、
イエス様(イエシュア)、、としての公生涯を始めた。

だから、イエス様が、別の名エレミヤ?という名で、、
レビとして学んだ期間、また、、ラビとして祭儀したことや
教えていた期間の事は、、聖書に記録されなかった。

イエス様は、神様の子だけど、、人としてお生まれになった以上、
学ぶという時間は必要でした、通常の人より、
理解度が早いのは、当たり前としても、、、。

ヨハネ
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

イエス様が、なんでも万能で、勉強もしなくて、
なんでも出来るスーパーマンなら、、
イエス様はナザレ、ガリラヤの方言で話すのではなく、
常に公用語のアラム語とヘブル語だけで話されて居たはずでしょ、。

イエス様も、人と同じように経験を積んで、勉強してたのよね、。
ただし、上で書いたように理解の速さは、人のスピードではなかったと思う、神様が共に居て、、イエス様の幼い時から常にそばにいて、気づきを与え教えてたと思うし、、。

神様であるイエス様がそうであるならば、
人間は、イエス様以上に向上心持って、、学ぶ姿勢、
自分の心を内省する、へりくだる姿勢がないと、駄目でしょ、。

今の自分の信仰が最高で、正しいと心奢ったら、、
堕落していくしかない、。
口先だけ、人に向かって人間は正しくないだの、
へりくだれだの言ってても、駄目だからね、。

自分自身が神様に対しても、人に対しても、穏やかではなく
へりくだれてもいないのなら、、傲慢でしかないのだから、。
怒りだけで、、言葉を発しててもだめなの、。
相手への愛がないなら、、何をしたとしても虚しい、。

ヨハネ
5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。

人というものは、基本的に自分勝手で、神様を顧みはしない、。

自分の罪を自覚して、罪の重さで潰れて苦しんで、
初めて、神様に従順に聞き従うことの大切さを知れる、。

この生みの苦しみは、、半端ない、。
自分の罪の重さに苦しんだことがないのなら、辛さはわからない、。

マグダラのマリア

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