FC2ブログ
クリスチャンブログです。ようこそ。御訪問頂き、ありがとうございます<(_ _)> 著作権は放棄していませんので、無断転載は御遠慮下さい。
  • 03«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »05
2019年03月24日 (日) | 編集 |
聖書には多くの女性が登場します。
エバから始まって、サラ、ハガル、
リベカ、 ラケル、 レア・・ナオミ、 ルツ ・・
最後はイエス様の御母マリアまで、、。

たくさん女性は聖書には記録されたけど、、
そのなかから、とりあえず聖書の登場人物、、7人、、。

特に女性の人生での喜怒哀楽、、をテーマに
記事をアップしてみようと思います。

女性、まぁエバが最初で
最後が聖母マリアですかねぇ。

エバ、サラ、、ハガル、、、聖書中の女性たちが
どんな思いでいたか、、、。
想いをはせて見たいと思います、。

今まで、そこまで考えたことなかったです。
ルツとナオミ、御母マリアのことは
考えたり思ったことあるけど、、。

まずは、エバ、。
自分の子が殺し合ったり
家から出てって、子供を2人同時に亡くしたのと同じ。

2人とも、少なくても、農作物をつくるには体力もいるので、
カインは成人(20歳以上)してたでしょうし、、。

アベルも成人してからだと、
乳離れに3年かかることを考慮するなら、、
カインが乳離れしてからアベルを宿したとすると、
アベルが20歳ころは、カインは25歳前後、。

25歳は、、レビ族が一人前とみなされる年齡、。
アベルとカイン、捧げ物の儀式、、
実際の祭儀の執行者は、、見た目はアベルだったけど、、
アベルではなくアダムの長子カインだったから、、
カインは25歳くらいだったのかな、。

20年以上かかって育てて、、、
大きくなった子を二人も失うのは、、、
母親としては耐え難いです。

カインは、エバの産んだ最初の子、、

創世記
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

カインを産んだときだけ、、エバは、、、
「わたしは主によって男子を得た」と言ってる、。
これ、、彼女は、、カインを産んで、、
凄く嬉しかったわけです、。

私も、一人目の初めての子は、嬉しくて、嬉しくて
生まれたばかりだというのに、
3500グラムくらいあって、身体がしっかりしてたからか、
どこでも抱っこして連れて歩いてました、。

二人目は、、嬉しくないわけではないのですが、
生まれて直ぐ抱っこして連れ歩くほどの新鮮味は薄れてました。
でも、子供は可愛くて、可愛くて、
二人とも、抱きしめてキスしてました、。

母親としての気持ちはそうでも、
一人目の、、初めての子供が生まれた時ほどの大きな感動は、、、
二度目、三度目の出産時には得られないのね、。

エバは、、一人目の、、初めての赤ちゃん、。
カインの誕生をとてもとても、、
大喜びしていたことが伺えます。

アベルのときより、カインの時のほうが、
絶対に喜んでたと思う。

多くの人はカインは神様に退けられたから、
粗野な人、人格的に優れてない、
自分の母にも愛されてないような、、
先入観で、カインのことを見てたかもしれないけど、違うのね、。

母親としての感覚だと、最初の子というのは、、特別嬉しいの。不思議なんだけど、。
母になる喜びを最初に与えてくれた子だからかなぁ、。
子供として見たら、全員同じようにかわいいのだけどね、。

私は、できる限り母乳育児だったけど、、
エバは母乳育児オンリーだったはずですしね、。
エバは、、いちじくの葉で腰を覆ったけど
胸を覆って隠したと書かれてないから
トップレスだったと思う。

エデンの園はアダムとエバが裸でいれて、
寒さを感じなかった場所。
追い出された先の土地も、エデンとは陸続きであったわけだから、、
気温的にはエデンと似た状態であり、、
地球規模で温暖で、木の果樹などはエデンよりは少ないけれど、
全地にあったと想うのですね、。

エデンにしか果樹や食べれる作物がないと言うことはないと思う。
地上に起伏ができ、山が生まれ、、、
気候と寒暖の差が生まれたのは、ノアの大洪水以降だと思うから、。

天地創造の聖句箇所では「山」の記述がないことから大洪水以前は地球規模で平地が多く温暖であったと思う、。

それだからエデンから離れても、
アダムとエバは裸に近いいでたちでも、良かったわけだし、、。

裸に近い状態であれば、母乳を与えやすいし、現代よりは暖かかったわけだから、
何枚も服を着るのは不要だったわけで、。

ノアの洪水以前は、肉魚などの肉食はしていなくて野菜果物、ビタミン豊富な食べ物を食べていたのよね、。
青草、、と聖書では書かれてるけど、。

今で言うと、ほうれん草や、小松菜のような、ケールのような青菜のことよね、。

青菜は血液をサラサラにして、母乳の出を良くして、母乳を美味しくするといわれています。青菜は、鉄分も多いから、、

エバの母乳は赤ちゃんであったカインやアベルにとって最高の栄養たっぷり母乳だったと思います、。

エバは、赤ちゃんのカインを慣れない手つきで抱っこして、母乳をあげて、大きくなっていくのを見るのが、
とても楽しみだったと思います、。

聖書的な3歳は、
数えで3歳になるころ(満年齢でいうと大体2歳)で
そのころに乳離れをするのですが、、
母乳も自然と出なくなる、、。
母乳を飲む回数が増えるしね、。

エバも、母乳の減りは、わかってくると想うので、、、。
赤ちゃんのカインを、母乳が出なくなったら、どうやって、育てたらよいか、、と
エバは、初めての育児だから、凄く悩んだと思います、。

今は、ママさん学級とかあるし、ネットで調べたり、本も買えて色々知りたいことがわかる、。
産婦人科でもお産したあと、
検診の時に聞いたら教えてくれたりね、。

エバは育児は初めて、全てにおいて、どうしたらいいのか、、あれやこれや、、試行錯誤してたとおもう、。

当時は、離乳食ないしね、。
母乳の代わりに山羊のお乳を温めて飲ませてあげたら良いのか、、とか、、
果物や野菜を石で叩いてすりつぶして、
お湯でふやかして食べさせたら良いのか、、、とか、、色々考えたのではないかなぁ。

母乳1つ出るか出ないってこと、、、、
どうしよう、どうしたらいい?と、大騒動だったかも、。今みたいに人工粉ミルクがあるわけじゃないから、。

生まれたばかりの赤ちゃんは、頭がグラグラするから、
抱っこするのも、、そおっと、両手で恐る恐る触れる、、。
アダムもエバも、最初は、壊れ物に触れるように、ビクビクしながら抱っこしてたでしょう。

これが、、2人目、3人目になると、
片手で赤ちゃんホイホイと軽々と抱っこして移動しながら、、

もう片方の手で、哺乳瓶に粉ミルク作ってたり、おむつ替えたり、するようになるのよね、。

慣れ、、というのは、、怖い、。苦笑、。

アダムとエバの時代には、布おむつも無ければ、下着も存在しないから、、
赤ちゃんが、もぞもぞした時、、どうやって、排泄の後処理してたのだろう??

母乳育児というかミルク飲んでる頃だと、
飲み終わったあと、ゲップさせ無いと飲んだお乳、、吐き出されちゃったりするし、
うんちも柔らかいから、距離飛ぶし、、
おしっこも、、噴水状態になるし、。

エバは、そういうので、身体が汚れちゃったとき、、川で水浴したのかな、。
赤ちゃんは、、いくらなんでも水風呂はなんだし、、慌てて火を起こしてお湯にして、お風呂に入れたのかな、。

最初に横に寝かして、おしっこやうんちが、ゆっくり出てきたと思ったら、いきなり、、一気に噴水になって飛んでくるんだもの、。

ピューと飛んできたとき、、
エバ、、凄くびっくりしただろうなぁ。クスっ。

私も超びっくりした。
ぎゃ~!って思いながら、必死に避けたもの、。私の後ろの柱に命中して、危なかったーとびびったもの、。

エバ、、カインとかアベルのおしっことかうんち、顔や頭から被っちゃった事あると想うよ。
おむつという防護壁ないから、。
そこ、現代より大変。
エバ、、まじ偉い、。

カイン、男の子だから、、寝が浅くて、
敏感で泣いたりしたのかもしれないし、
エバも夜泣きで、たまには起こされて、
大変だったかもしれない、。

そうやって、エバはお母さんとして、
現代のお母さんと同じように、色々と、
苦労しながらカインとアベル、セト、
他の子たちの育児してたんだよね、。
きっと、。

聖書には記録されてないけど、、
いくら天地創造の始めで、創造されたばかり、の人間といっても、
子育ては、現代とそう変わらないでしょ、。
数日、数ヶ月で大人になったりしない、。

創世記
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

数行で、産まれて大人になってるけど、。

カインとアベルがふたりとも成人するまで
最低でも20年以上の時間が流れてる、。
20年間以上のエバの育児の労苦がある、。

アダムとエバは、エデンから追放されてから、神様に背いたことを後悔し反省してたと思う、。

「わたしは主によって男子を得た」
神様から子どもを与えられ、それが
祝福されていることだとわかったから
それも嬉しかったんだろうね、。

当時の育児は、、今より、大変なことも多いような気がする、。
現代は大概、自分の両親とか、奥さんの両親がいて、助けてくれる人が誰かしら居ることが多いけど、。

アダムとエバは、子どもが誰か大きくなるまでは、、手伝ってくれる人が誰もいないわけで、、

自分たちで赤ちゃんの世話も、畑仕事も、水くみも、全部しないといけなかった、。

カインとアベルのあとに、
セトが生まれて、、アダムは、
セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。
とあるから、、その娘のひとりが、カインの妻になった、。

アダム、、現代と比べたら長生きね、。
何人子ども産んで作ったのかな、。
セトがある程度大きくなったあとは、
エバは、セトにも手伝って、貰って、
数年おきに産まれてきた娘や息子を育て続けていたんだろうね、。

何人とは書かれてないけど、。セトの子孫や他、、カインと婚姻できるくらいだから、たくさん産んで育てたんだよね、。


アベルが亡くなって、カインも離れ去って
エバが神経ボロボロだっただろうから、、アダムだってエバだって、
すぐに子を作ろうとは思えないだろうし、。

再度、子どもを作ろうとするにしてもアベルのことがあってから
2.3年後だと想うし、。
それからセトが生まれて3年後に娘が生まれたとしても、
彼女が成人するまで15年として、大体20年以上ぶりの親子の再会、。

アベルが生まれて成人する前に、、、
セト以外の他の息子を産んでたというのはありえないけど、、娘を産んで居たなら離れてた期間は短くなる、。

聖書の偽典に

ヨベル書4章
1第二ヨベルの第三年週に彼女はカインを産み、第四年週にアベルを産み、第五年週に娘アワンを産んだ。

とあるので、
カインの妻となったアダムの娘、、
カインの妹の出生時期は正典では不明ですが、カインの生まれた一年後にアベルが、アベルの生まれた一年後にカインの妹アワンが生まれています。

関連記事(姉妹ブログに飛びます)
カインおよび、 その弟セツらが娶った妻について (ヨベル書4章)

系図の書き方だけでみると、カインが子を産んだあとにアダムとエバにセトが生まれたように書かれているけど、。

時系列通りに書かれているとは限らないし、同時進行の可能性もある、。
ヨベル書にかかれている内容の通りなら、
カインとアベルは1歳違い、カインの妹はカインと2歳違い。

それだと、アベルが生まれて1年後に妹が生まれてたとするなら、。
アベルが20歳時、妹は19歳くらいなので、そのまま妻にするために一緒に連れてったというパターンもありだけど、。

でも、カインは追放される時に、
妹(妻)を連れて立ち去ったと書かれてないから、やっぱり、後から、お嫁に妹を欲しいと言いに行ったパターンなのときかな、。

もしカインが数年後に婚姻の許可を貰いに来たと仮定するなら、カインは、一時の感情で弟のアベルをあやめてしまって、、
それは、とてもエバにもアダムにも悲しい出来事だったけど、。

カインが、、妹をお嫁に欲しいと、、
アダムとエバに言うために、両親に会いに来たと仮定したのならば、その時、、アダムもだけど、、エバは、特に嬉しかったと思う。
アベルのことがあって、そのあとは離れて暮らしてた我が子だから、。

アダムにもエバにとっても、
カインは、最初の子、、可愛い我が子、。
妹を嫁にほしいと言われて断るわけもない、。

二人が許可したから、カインは妹を妻にも出来るし連れて帰れた、。

親だもんね、。
離れて暮らしてる我が子カインを不憫に思わない日はなくて、、
事情が事情でも、、幸せになって欲しいと、、アダムもエバも思ってたと思う、。

子をたくさん産んで得れても、、
最初の子、は、特別、嬉しい存在、。
離れてたって、時間が経ったって、忘れれない、。

カインはね、。
エバにとって特別な子だった、。

カインがアベルをあやめて、祭儀を失敗して、神様から追放されることになって、
エバは、アベルが死んだこともだけど、、

カインとも離れて、上で書いたように、
二人の子を同時に失ったようなものだから
二重で悲しくて悲しくて、、
御飯もろくに食べれなくなるくらい悲しかったと思う、。

普通の母親であれば、子どもが亡くなったり、、居なくなって平気な母親なんて、いないもの、。

現代では、色々なストレスから心を病んだりしてるから、子どもを邪険にしたり、居なくなればいいと思う親も存在してるけど、。

エバの時代は、、子ども自体が居なかった。自分たちの子が初めて、、、
育児も初めて、親子関係も初めて、
何からなにまで、初めて、。

だから、、何もわからず手探りで、一生懸命に苦労して育児して愛情を注いできてたわけだから、、愛を注ぎ込んだ対象を失った悲しみは、、とても大きかったのではないかな、。

聖書ではエバの苦労も悲しみも嬉しさも、
割愛されて何も書かれて居ないけど、。

エバは、薄々、
カインがアベルに腹を立ててることくらいは気づいてたと思う、。
でも、カインが憎しみのあまりに
弟を殺すとは思って無かったのよね、。

エバは、あとで、アベルが殺されたことを知った時、二人の仲裁に入るとか、他の土地にアベルを逃がすとか、なにかを行動すればよかったと、、後悔したかもしれない、。

エバは、二人の息子の母であるのに、、
助けてあげれなかった、、と苦しみ
自分の無力さを悲しんで
何度も泣いたとおもう、。

御母マリアのように目の前ではないにしろ、自分の子を1人は死んで失い、
1人は傍から立ち去ってしまったのだから、。

原罪を犯して、お前がりんご食わなきゃ、。人間、今みたいに金のために働かなくてよかったのに、。と
糞味噌に言われることが多いエバ、。

さらっと子どもを産んで、
大人にして、ハイ終わり、。にされてるエバ、。育児の苦労は、、現代女性に負けてないくらいしてる、。

愛情は、子どもに気合い入れて注いでる、。エバが900年生きてたとして
最初の25年でカインとアベル、妹アワン3人として
同じようなペースで子供を生んだら
100年で12人、800歳まで子を生んだら
96人くらい子供を生んでるかも。

子どもがある程度大きくなるまで、、
24時間、休み無しで育児労働だもん、大変だ。

アダムは、食料得るために忙しいから
そんなには手伝えないのよね、。
育児はエバの仕事だったわけだし、。

エバ、原罪犯したけど、すごく偉いでしょ??初めて育児、手助けナシで、、お母さんの役目、頑張ったんだから、。
エバのこと、。
聖書読み直して、また気づくことがあれば、随時、加筆します、。

加筆
文内も加筆してますがヨベル書の通りだと

ヨベル書4章
1第二ヨベルの第三年週に彼女はカインを産み、第四年週にアベルを産み、第五年週に娘アワンを産んだ。
第三ヨベルのはじめに、カインはアベルを殺した。彼(アベル)の犠牲(いけにえ)は受け入れられたのに、カインの犠牲は受け入れられなかったので、彼は彼(アベル)を野で殺した。
3彼(カイン)が彼(アベル)を殺したことを嘆く血の叫びは地から天にまで達した。

ヨベルと言うのが7年でワンクールなら、
第二ヨベルの3年目にカインが、、
4年目にアベルが、5年目にカインの妻になったアワンが生まれて2年後、7年目に第二ヨベルが終わって、アワンが生まれて3年目に第三ヨベルが始まって、、、

カインが4歳?、アベルは1歳年下だから3歳、アワンがカインより2歳年下だから2歳頃に、カインとアベルは生け贄の儀式をしたことになっちゃう?

現代と成長速度が違うので無ければ、
4歳のカインが農作業??
3歳のアベルが羊飼い??
?がいっぱいになりますわー。

なるほど貴重な名前のデーターが山と書いてありながら偽典扱いになるわけだ。

遺伝子が、今と違って完全版に近いのだから、現代の人間と成長速度が違っていてもおかしくはないけど。
成人までは早くて、後は遅いみたいな年齢の進み方でないと、ヨベル書の年齢記述では無理があるー。


次は、、誰にしようかな、。
アブラハムの妻サラにしようかな、。
サラは、なかなか子どもが与えられなかった女性。
サラは、どんなこと考えてたんだろうな、。

少なくても、自分にだけ子が生まれないことを
イライラしてひがんでたと思う、。
サラに子どもが生まれなかった理由って、、なんだろう、。
サラは、自他共に認める美人。

なかなか子が生まれなかったラケルも美人で、
姉のレアに子が産まれたことでひがんで
夫のヤコブに喧嘩売ってたくらいキツイ性格してた、。
サラは、アブラハムにハガルのことで、あなたのせいで、、って
ラケル同様ぶち切れてるから、高慢さがいけなかったんじゃないかな、。

私は美人で正妻、みたいな、。
しょうがないっていえばしょうがないのかな、。
みんながサラを見て美人びじん、、と口を揃えていったんだから、。
どんだけ美人だったんだろう???

サラ、美人だと言われて、嬉しかったのは最初だけで、
聞き飽きるくらい人から美人だと言われ続けてきたわけだし、。
ちっとやそっと褒められた程度じゃ、
嬉しいとは思えなくなってたんじゃないかな~?

私なら美人と褒められたら嬉しいけど、、
サラは異邦人の王様に、美人だと褒められても、
なんとも思わなかったんじゃないかなー。

サラがアブラハムより異邦人の王様のほうがお金持ちでいいなーと
思ってたら、神様が王様の夢に現れて、サラになにもしないように、
助けたりしないだろうし、。

サラ、、不定期ですが、、続きます、。


応援ポチッとして頂けると(^_^)v(*^_^*)(^_^)v
猫になって喜びます。(=^・^=)V






2019年03月24日 (日) | 編集 |
摂理と人との関係が、与えられたお題なんですがー。
人は摂理があること自体知らない、。
酷いと神様の存在すら否定的。

お題が難しいので、どうやって書けば良いか、、と、
当初から色々と考えてました。

神意による法則性が摂理なわけだけど
法には理も共に有って理法と言うわけで、、、。
いくら法則性があるといっても理と法だけであったら、冷徹(れいてつ)で血も涙も情もない摂理となるだけ。

神様は愛情の神様で有るから、、理と法のみではなく、それらに加えて愛の法も共にあるわけです。

例えばニネベの町、、
滅ぼされる筈だったけど、、
罪を認め悔い改めたから滅びから免れました、。

神様はアブラハムに正しい人が、たったの10人いたら、、悪徳の町ソドムとゴモラを滅ぼさないと約束されました、。

でも、ソドムとゴモラは、、誰も悔い改めなかったから、天からの火で、ロト達以外は、滅ぼされました、。

ソドムとゴモラは大きな町だったのに、、たった10人さえも、、正しい人が居なかった。ロト達以外は、、。

神様は、10人居なかったけれど、、正しい心を持っていたロトたちをソドムとゴモラの滅びの中から救い出して、
裁きの時を遅らせてまでして、彼らを助け出しました、。

ロトの妻だけは、、振り向いたので、滅びましたけど、。もし良い生き方、正しい行いをする人が、ソドムに居たのなら、、50人が10人でも5人でも、神様は憐れみ助け出したと想うから、。

約束の数通りに50人とか10人なりの契約通りの人数が居なかったら、絶対に一緒に全員滅ぼす、、というような神様じゃないのよね、。

もし土壇場であっても、、
ソドムに天から火が落ちる、数時間前でも、思い返して悔い改めて神様に謝罪して、自分の罪の非を
ソドムの人たちが認めて、ニネベの町の人達のように悔い改めてたら、、
神様は、ソドムとゴモラで悔い改めた人達を滅ぼさなかったと思う、。

神様を思う人、感謝したり、罪の赦しを請い願うような人がロトたち以外では、1人も居なかったのでしょうね、。

ロトの妻は、、ほんとにソドムとゴモラが滅ぼされるのか、、後ろを見た、と聖書には書かれてるけど、。

彼女は、もしかしたら、神様の御姿をたとえ後ろ姿でもいいから、
見ようと思ったのかもしれない、。

そんな不遜なことを考えたら、、打たれて当然だもの、。神様と相見えるのは、、神様から、赦された人だけ、。
誰でも彼でもいいわけじゃない、。

後ろを向くな、、急いで逃げなさい、、と先に天使にいわれて、禁止されたのに、。ロトの妻は、それに背いたから、、滅ぼされた、。

そんな性格じゃ夫にも背いてたんだろうし、。そういう夫婦関係であれば、、
ソドムに好きな男性がいたかもしれない、。そういうパターンでも後ろを振り向くなぁ、、、。

振り向いたら、巻き込まれて滅びるって
前もって言われてて、なんで振り向いたのかしらね、。謎。ここまで逃げたから大丈夫、、はないのよね、。

だって当初命じられた山ではなく、近くの町に逃げたんだから、。
しかもロトたちが町に逃げ込むまでは何もしない、。と
神様はロトたちがツォアルの町に着くまで譲歩して待ってたわけで、唯一の命令に背けば、滅ぼされても仕方がない。

でも、、近いと言いながら、、
「夜が明ける頃」にソドムを出たロトが、、
「太陽が地上に昇ったとき」、ツォアルの町に着いたのよね、。

これって、、イスラエル的なお昼だと、、、
現代の場合、朝の6時から12時までが6時間だから
通常3時ころから起き出すので、今で言うと朝の9時くらい??

それとも、日の出のこと?
でも、、夜が明けるって、
普通は、日の出の4時半前後のことだから、イスラエル的お昼っぽいわよね。
となると、朝の9時くらいになるのかな。

4時に逃げて、9時だと、、5時間、、。
徒歩で一時間4キロ移動で20キロ、。
あの町、、と神様に言ったのだから目で見える距離範囲よね、。
とても急いで逃げたようには考えれない、。
http://keisan.casio.jp/exec/system/1179464017
大人の目線で高さ1.5メートルで計算すると、可視距離は4.64kmだった、。
4キロとして、日の出だとしても、1時間半かかる程度で着かなきゃ、、遅い、。

もしロトに息子がいたら、、息子が気になるよね、。
逃げるのも、ロトの妻は、息子たちが気が気じゃないので、、遅く歩く。
嫁にいった娘が2人、、家に残ってる娘が二人、。息子がゼロ、ということは考えにくい、。

息子の嫁でも、娘だから、娘と書かれてもおかしくない。長男と次男の嫁であれば、、実父ではないので、子を得ても、
血筋を絶やさないための法によれば、
一番近い肉親であるので、違反行為とはならない、。

実際、一親等の近親婚は、異常児が生まれる確率が高いのでしない。

聖書の系図に名前や存在が書かれない場合、不信仰だった場合が多い、。
ロトに息子が居たらソドムとゴモラに同調して不信仰してたのかもね、。

イエス様を受け入れなかったイスラエルは、そんな国ごと滅びた
ソドムやゴモラより厳しい罰をうけるし。

もしイエス様がイスラエルでなさったような奇跡を、、ソドムとゴモラで見せてたならば彼らは恐れて悔い改めて滅びなかった、、とイエス様は仰った、。

神様を信じないで滅ぼされたソドムとゴモラの人々よりも当時のイスラエルは信仰心が失われてて劣る、。と厳しく言われた、。

神様を畏怖し敬う心、信仰心を失うのは一番良くないと言うことですね。

人と神様と二人三脚で摂理は進むので、人の信仰心が失われると、その分、摂理の完全完了が遅れると言うことだから。

基本的に、現代は、
神様の愛による法によって裁きよりも
救いの摂理が最優先されているのです、、、。

本来、罪人は厳格に裁かれるべきところを、救いの摂理の遂行推進が優先されて、現在進行形で起きつつ救いの摂理の完全完了へと向かっているわけです、。

現状では摂理とは救いの摂理のことが主です。
でも、ただ単に神様だけが摂理を進めているのではなくて、上で書いたように
人の信仰心が不可欠です。

聖書にたくさんの人が信仰を立てたことが記録されたように、、
多くの人が神様に従い信仰を立てて、、
摂理の型(プロセス)の確立にかかわっています。

メインブログの過去記事ですが、
良かったらお読み下さい。

救いの摂理について
https://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/37162315.html

神様のみで救いの摂理を進めてたら?
とっくに救いの摂理は完全完了して、
人の救いは終わっているでしょう、。

でもそれじゃあ、人は
神様のいうことをいやもおうもなく受身的に、、させられてきた、 
というだけになってしまい。
本当の意味で人は救われない、、。

与えられるだけの受け身だけの救いで、
なにも人の意思が関わらず、、、、
苦しみを乗り越えて信仰を立ててきたものでないなら、、
人は救いの価値を見いだせない。

多くの人が、神様に苦しみながらも従い
信仰を立てて来て、苦労の末に積み上げてきた救いの摂理だから

神様に対してだけではなく、、
摂理を立ててきた人達の辛さや想いに共感して、感謝もわくわけで。

旧約聖書はイエス様の証しと、
イエス様までの長い期間、、どうやって
神様と人が救いの摂理を造りあげてきたかの記録。
新約聖書は再臨主イエス様を証しするもの。
人の救いの摂理に、神様だけが関与しているのではなく、多くの人が信仰を立てることで、救いの摂理のプロセスの確立に関わったことが詳細に聖書に記録された。

1人の人の立てた信仰の流れ、、法則が、、次の信仰を立てるべき人に受け継がれていき、、次の人が更に摂理を発展させより完成型に近づけて行った。

だから、聖書には似たような繰り返したような話が多い、。
それらは、救いのプロセスをつくる途中経過だったわけで、。

何世代分もの信仰ある人の信仰心と行いを介して摂理の型は神様と人の共同で造られ続けてきました。

神様が救いの摂理に人を介したのは
人が神様から魂をわけ与えられた唯一の存在であること、また人は被造世界の長として創造されたから、

罪人に落ちた人も救いの摂理にかかわることで、救いの摂理という名の再創造に人も関与し、当の人間はそれを知らなくても、信仰心を持ち神様に従っていたら自然と神様の摂理によって摂理に従って動いてるということなのです。

救いの摂理の、最終の救いのプロセスを完了なさったのはイエス様です、。

旧約聖書の成就とは、救いの摂理の完了のことでした。
救いの型は、イエス様が完全なる信仰を神様に立てることで完全確立されたわけですが、

全ての人が救われて、原罪が人の中からなくなって、初めて完全完了となるので、イエス様から、2000年経ちますが、、まだ、完全完了ではありません。

なので、救いの型はイエス様に繋がることで救われるという形で
出来上がっては居ますが、、

更に人が神様に信仰を立てて、従うことで救いの摂理の完全完了、救いの完成、再創造の完了が早くなることも可能なのです、。

イエス様のときは、、人が不信仰をしたために、イエス様ご自身が人の身代りに、信仰を立て、ご自身の完全なる無垢な命を捨てて、、人に与えることで

ご自身に繋がる人が原罪から解放され、無垢な生命を得れるという
罪からの救いの摂理を完成させて下さいました。

これは誤って殺人の罪を犯した者が、血の報復を逃れるために、
自分の町から出て逃れの町に住んで、
大祭司が死んだら、、逃れの町から、
自分の町へ帰ることが赦される。

罪をゆるすための生贄、贖いの捧げ物とすること、、大祭司で神様であるイエス様ご自身の無垢な生命を以て、、、
死すべき罪人の身代りとしたこと、。

これらは通説となっていますが、もう一つ、。
レビ記
2:3 穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである。

一部を取って、聖なるものとしたものは、全体も清いとみなされる、。
清いイエス様という幹や根に繋がることで、

そこに繋がる接ぎ木や枝葉も、清いものとみなされるわけです、。

他に聖書の出来事にならって、この世の現象も起きてます。

繰り返し、繰り返し、、救い摂理の完全完了を少しでも早めるために、
人が信仰を立てることが、、日々積み重ねられている、、。

いまも、、日々変わらずに、生きている人が気づいていない、というだけで、、。

奇跡を信じる人は奇跡も起こせるし、なると思えばなるし、、
自分が信じている通りのことが現象として起きてくるし、、
自分の脳内イメージが現実化するっていうのはスピリチュアル系の思考とされやすいですけど

とても聖書的だと私は思う。
摂理って神様の想念イメージによる
設計図みたいなものかなー。

神様の設計図に間違いは無いのです。
人が不信仰だった場合も網羅しているから、でもね!人が不信仰のままでいちゃイカンのよ!

人類全員が信仰心持って神様を畏れ敬うのが正しい在り方。
神様否定して無神論者してると
死んで霊界行ったら、びっくりして慌てることになるし、

死んだら終わりだと思い込んで
生きてる間、自分さえ良ければの思考で生きて悪事もしてて悔い改めもしてなかったら地獄に行くしかなくなるし。

生きてる間だけよ。
神様に心繋げて感謝して
心が平安でいれるのは、、。

神様に感謝の想いを繋げて、
魂が喜んで、元気で若々しくいれるように霊と肉体にもパワーチャージされるんだから!

聖書では霊の食べ物って書かれてる。
神様に想いを繋げる事は、霊の食べ物をいっぱい頂けるのよ~!

祈りの課題を祈るような、
祈るのではないの、心を神様に向けてつなげる、結びつけるの。

自分の心のすべての想いを尽くしてね。

そうすれば救いの摂理を進めれた一人に、、神様の再創造に関わった一人に、あなたもなれる。

天地創造の神様の、
再創造の御業(救いの御業)に、
人は信仰心と良き行いにより関われる。

再創造は、神様任せで、
人が無関係ということではないのです。

むしろ、父さまは人類全員参加を願っておいでだと私は、強く思う。

8月30日加筆
逃れの町関連で、
逃れの町は、殺人者をかくまう為に指定された町でしたね、。
殺人者は律法上の与えれる裁き、罪の報酬は死です。命には命が規定。

だけど過失による殺人であれば、
犯人は逃れの町に入れて、そこで生き延びれるのでした。

神様の救いたいという思いと、人への理法を与え色々指示をされてた事の真の意向は、

人に罰を与え裁き、罪を犯せば厳罰をもって殺すのが目的ではなく、なにかしらほんのわずかでも憐れみをかけられる要素があるのであれば 

死の罰から罪を軽減して生かしてあげよう、つまりは、人に死なずに生きて欲しい、、ということです。

逃れの町にいさえすれば、誤って殺人をしてしまった人は死なないで良い、ただし不自由はあるでしょう、
大祭司が死なない限り町から出られないし、。

でも神様の基本理念は、罪には厳罰をもって裁くのではなく、
出来る限り、過失の場合などは罪を
減じ、

単純に法のみで裁けば死を与えられるべき人でも、過失の場合は、
慈悲をもって、ゆるし活かしたいということであると、
こういう逃れの制度などを作ったことでわかるのです。

ならば、、、
ゆえ有って若くして自殺した子供を霊界で神様は、お裁きなさるのだろうか?

辛くて悲しくて悩み苦しんでの選択で、死にたくて死んだのではなく絶望して自己の命を絶つしか道がなく周りから追い詰められてそうするしかなかったならば、、。

答えは言うまでもないこと。

父さまは裁かない! 
憐れむのです!!
それがイエス様の父なる神様です。

死を選ぶしかなかった子供の環境的な事情や誰にも頼れず絶望し追い詰められた心情を誰より知っている ので、

苦しみ悩んで逝った子供の心に寄り添って一緒に泣くでしょう、、父なる神様も、。

自殺でも裁かれない場合がある、、。

そういうことを言うと、なに言ってるんだとか言われるかもしれないけどね。

理法では自殺はいかなる理由があろうと自己殺人であり重罪、殺人と同じだって、、。

しかしはっきり言っておく。
地に造られたものは
既に同時に天にあるのだから、。

悲嘆に暮れ 追い詰められ
悩み苦しんで若くして死んだ人に
地獄行き、というような
塩を傷口に更に塗るような神様であったなら、、

それは私の知る父なる神様ではないから!
私、、私達の信じている父なる神様は、、慈愛に満ちた愛の神様なのだから、憐れみゆるし、

たとえ地獄に落ちかけた状態の霊でも御手で天に引き上げて苦しみから救い出して下さるのです。

年を重ね普通に社会人していれば
人脈や友達も出来、相談する相手も家族以外にも出来て政府の機関にも助成を申請出来るけど、、

若い子供は、相談する場合でも同い年の若い子、社会人ではないからどうにも出来ない。

自殺は自己殺人であることは否めない事実であってしてはならないことで罪ではあるけれど

父さまは愛と法で統治なさるから
状況次第では情状酌量される。
自殺がすべて大罪とされる時代は、過ぎ越した、。

神様は愛と法でこの世を統治なさる。
法より愛が優先されるのは、
人を愛したくて創造なさった神様の愛ゆえに、です。
神様の摂理は人への愛に溢れてる。

マグダラのマリア


応援ポチッとして頂けると(^_^)v(*^_^*)(^_^)v
猫になって喜びます。(=^・^=)V




2019年03月24日 (日) | 編集 |

イエスさまの父さまである神様は、、
三位一体の神様、、。

神様は、みいつの神様、三柱で、、一つ、。
父(父性的な厳しい愛、愛情をもって裁く愛)、
母なる聖霊(母性的な慈悲愛、守り育む愛)、
御子イエス様(完全愛のこの世への顕現者)の三者で一体、、。

創世記
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

我々と複数なので、唯一のという単数扱いの方の
神様に似せてではなく、みいつの神様御自身、、
父性愛の父さまと母性愛の聖霊にかたどって、、
人の創造はなされました、。

まずは霊的に男女の霊が一対となって
神様の中で創造され、、
次に肉体的に男と女とに創造されました、。

三度も創造されたと書かれているのは、、
霊としての人間の魂の創造が、、
アダムとエバ、男女2人で一対で、
単独の一つの魂としての創造が一度と、、。

肉体としては男と女とに分けて
男アダムと女エバとでの2度の創造とがあったから、、
ではないかと思っています、。

男女、、見た目は2人に別れているけれど、、
アダムの骨肉、アダムの肉の命の一部から、
エバの肉体は産まれ創造されたので、、
エバは肉体的にもアダムの一部なのです。

このように神様の当初の人の創造が
男女一対での魂と肉体との創造であるので、、
アダムとエバも含め、男女一対の夫婦となった者は、
肉体的には別でも、霊的にも1つの存在なのです、。

夫婦は男女で一対、一体であり一人とみなされる、。
神様が、三者で一体であるお姿に似せて、、。

人は男女で一対、夫婦となるべく創造された、。
子という存在を持ち、父、母、子として、、
三者が1つの家族となることで、、人は、、
みいつの神様の生ける似姿を現す者となれる、。

神様は、、このように仰っています、。

創世記21:13
しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」 

親から子へ、、の血筋の継承です、。
神様の祝福は、親から子へ、子から孫へ、、
と血筋によって永続的に引き継がれて行くのです。

神様は永遠に愛する御方であるので、
神様の人への祝福も、永続的、永遠に続く祝福、、
産めよ増えよ、、地に満ち(続け)よ、、なのです。

人の肉の命自体は、
120年で、1代限りであり儚い寿命なのですが、、
子を産むことは、、自分の血肉を子となる者に、
分け与えていることなのですから、。

アダムが、自分の肉と骨の一部から、
エバを得て、子を得たのと同じように、、
人は、自分の子を産み育てることで、、
自分の肉と血筋を持つ子孫を、
半永久的に未来に遺すことが可能なのです。

血筋が続きつづける限り、永遠に、。

創世記
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人は婚姻によって、夫婦となり、
子をなし家族となることで、、
男女一対での魂の状態、人(アダム)が創造された時点に、最も近い姿の状態となるので、、
人同士の婚姻は神様の御意志であると言えます、。

神様が娶せた運命の結婚であれば、、、
この世で、とても相思相愛になれるでしょうね、。

ただ、、イエス様が仰ったように、
今世で、そのように定められていたなら、
この世では未婚のままで、います、。

でも、永遠に未婚のままとなるのではなくて、、
肉体の死後、新生輪廻によって、、、
新しく産まれてくる赤ちゃんの霊に
自分の霊を合わせて産まれてきて、、

そのときに、、どこかで
自分の魂の片割れ、運命の人、、
と思える人と出会えます、。
その時は、大いに心が満たされるでしょう。

神様が娶せた相手同士ならば、、
夫婦は、、永遠に離れないです、。

ひとりの夫と妻で、永遠の愛と絆を持つのは、、、
神様が不変で永遠の愛を持つお方なので、、、、
そういう神様の似姿として創造された人も、
永遠の愛を顕現化すべき存在だからなのです。

だからこそ、、
永遠に一夫一妻でありたいと
思える人と出逢えるまで、
新生輪廻をする事も許されています。

何度でも、、自分が納得いくまで
自分に合う伴侶を探し続けれる。

一度目の人生で、良い人と出会えずとも、
幾度か新生輪廻していくうちに、絶対に、、
そういう運命の相手というべき存在と出逢える、。

神様は、、男女一対で創造されたのですから、、
必ず1人に1人、、魂の片割れ、、
神様が備えている運命の相手、は
存在しています、。

また、新生輪廻は、生きてる人の助けを借りて、、
良い結婚生活の経験を積むことで、
霊の自分が生きていた時の、
過去の過ちに気づけたりします、。

もし、自分の元の伴侶が、運命の相手で、、
自分が間違いに気づくまで時を待っていたのならば、
元の運命の相手であった伴侶と、
やり直すことも出来るわけで、。

そうであれば、元の伴侶が戻ってきたとき、
戻って貰えた運命の相手の伴侶は、、、、、
最初、結婚した時以上に喜びも大きく、、
深く慰められる、。
失っていた宝物を取り戻せたのだから、、。

生きている時に、ドジって失敗しても、、
結ばれた相手が運命の相手であったなら、、、
新生輪廻によって、やり直せるってこと、。

ただ、どこでいつ出逢うかは、、
父さまだけしかわかりません、。
できれば、、最初の生きている時に、、
出会いたいものですが、。

こればかりは、最善の時に、
父さまが娶せて下さいますので、
いつになるかは、、当人は分からないですね、。

まぁ、運命の相手だと、
生きている間、、信じて夫婦でいないと、、
結婚生活の維持は我慢もあるし、、。

でも、、神様が娶せた
運命の相手との結婚であれば、、
本当に永遠の結びつきです。

新生輪廻は良い制度です。

失敗が多き人のためには、、
大きな救いと慰めになります、。

結婚以外にも、、生きている間に、
イエス様に出会うチャンス、、
信じることが出来なかった人が、、
生きている人と霊を合わせることで新生輪廻をして、
生きている人がイエス様に救われた時に、、
霊である彼らも、共に救われ、
原罪がないとみなして頂けるのです、。

それは、イエス様の救いが
完全だからこその恵みです、。

イエス様の無垢な御霊と繋がり、生きている人が
イエス様の身体である聖餐を受け食べることで、、
霊である人も、、生きている人の霊とともに、、救われるのです、。

いわゆる霊的なセカンドチャンス、、
サードチャンス、、ですね、。
生きている間だけではなく、、
死んでからも、人に永遠に救いの道は与えられて居るのです、。
それは、神様が、赦したい御方、愛したい御方だからです、。

このように、、どんなに未熟な人間でも、
新生輪廻を繰り返し
色々な人に霊を合わせて体験を積み、学ぶことで、、
必ずいつかは悟って真理に近い状態へと向上出来る。

気が遠くなるような時間がかかっても
失敗に気づいて戻れるなら、それもありでしょう?

生きてる人間でさえ、
もう一度、やり直せたら、、と想うのだから、、
父さまが、、そのように人に道を備えても、、おかしくないでしょう?

神様は、、人に、御自身の霊的な資質である
父性と母性を与えて、男女一対で創造なさった、。
人間は、、男性単一、女性単一では、子を成せない、。

アダムだけの創造でも子、をなす必要がなければ、、
アダムが1人のままでも良いと神様がお考えになったのならば、、エバの創造は要らなかったでしょう、。

神様は、最初お一人でおられて、
1人で居ることに虚しさを覚えられて、
人を創造し愛したいと願われた、。

その時、すでに神様は、
男女一対で人を創造することをお決めになられ、
父性愛をアダムに、、母性愛をエバに教え育て与えるつもりで、、創造された、。

父なる神様のご意思に沿って、
アダムは、、まだ人となる前のイエス様が、、
エバを聖霊が、、、
御自分たちの現身(うつしみ)になる予定の2人の手本となって、、色々、教えたりしていたと想うのですが、。

2人がサタンと通じて、罪を犯し堕落したので、
イエス様も聖霊も、、自分達の現身となるはずであった2人から離れた、、。

父さまは、、予期しないことが起きたから、、
とても悲しまれました、。

人のために、、何から何まで最善の物を準備をし、、
神様のお命の一部、、御霊、まで魂として与えて、。
御自身の持たれる父性愛、母性愛も教え育てて与えて、文字通り、我が子として愛したというのに、堕落したんだから、、。

神様は、当初の、、御父、御子、聖霊の三者が一体となったまま、、お一人の状態のままでも良かった。

でも、人は単性では子をなせ無いから、、
アダムに父性エバに母性を与えて子をなさせることで、、ご自身に似た永遠性を持つ者とした、。

人のために、みいつの神様の持たれている、
二つの愛の資質、父性愛と母性愛を、、
わざわざ分け与えて下さっていた、。

三位一体の神様は、霊が合わさって
唯一無二のお一人の状態のままでも、
よかったのに、それぞれの位格がある、みいつの神様の状態になられた、。

それは、人に神様の持たれるうち
二つの位格の霊的な愛の性質を与え、、
一対の男女が父、母、子、となることで、

人に、、夫婦愛、家族愛をもたせ、
愛の永遠性と、霊だけでなく
肉の命にも永遠性とを分け与えるために、。

とれだけ、、人を深くふかく愛しておられるのでしょうね、。天の神様は、。


マグダラのマリア



応援ポチッとして頂けると(^_^)v(*^_^*)(^_^)v
猫になって喜びます。(=^・^=)V





2019年03月23日 (土) | 編集 |
この書庫の記事は、過去に姉妹ブログに書かれたものです。

某教えの、再臨論に異議あり、、。ということで、、、
マグダラのマリア再臨論。

あらかじめ先に言っておきます、。
イエス様の十字架のみ救いは完全無欠なものであり、
イエス様ご自身が、、再臨なさる必要性は、、ゼロです、。

したがって、イエス様が再臨する必要がないのですから、
イエス様が、もう一度、受肉され地上にお生まれになられても、
2000年前のような、メシアとして命を懸けてでもとか
原罪から人を救うこと、、メシアとしての役目、、、は、、
二度と繰り返して行う必要がないのです、、。

イエス様の救いは完全なる救いなのですから、
一度でよいのです、。

第二の幕屋、、聖所には年に一度だけ、大祭司だけが入ります。
その一度きりのときに、、イエス様は、神様に背いた人類の身代りに、
清く無垢な神様としてのご自身の霊の生命と、、人としての肉の生命と、、、
全ての生命を、、人の罪を贖う生贄として捧げたのです、。

イエス様は、、動物の生贄のように、、
肉的な生命だけを、捧げたのではないのです、。
神様としての生命をも共に捧げたから、、完全なる救いなのです、。

無原罪で神様であるイエス様以上に穢れがない生命は存在しない。
これ以上清いものがない捧げ物、。
動物も、罪を犯していないため、
無原罪の存在であるけれど、、神様の御霊を宿してはいないので、
神様の御霊を宿す人の生命と等価とはならない。

動物は、せいぜい罪を犯した罪人の肉の命と等価であって、、
人の肉の生命が打たれて死なないように
罪がない動物の命を捧げることで自分自身が死んだことのようにして、
自分の身代りとし、罪を無いとみなして頂いて
生きることを許して頂くことが精一杯、。

罪を犯さない人はいない、。
だから、日毎、月ごと、年ごとに、、
イスラエルの会衆の罪を祓い清めるための
罪がないとみなす生贄の儀式が必要となった、。
動物の生贄は、人の肉の生命の身代り、。

罪を犯した人自身が自分の生命をもって罪を贖うか、、
人の生命以上のものでなければ、、罪の贖いにはならない、。
だから、イエス様は、、人としての生命だけではなく、、
神様としての生命、、をも、人のために捧げた、。

イエス様は不死で永遠に存在する御方です、。
人が、失ったのは、、
永遠の霊の生命、生きている者としての命であったから、
人の身代りに、、永遠の生命を持つ御方であるイエス様が命を捨て、、
イエス様に繋がる人が、、そのイエス様の永遠の生命を受け取って
霊の生命が蘇って、生きた者に戻ることが出来るようになった、、。

だから、、重ねて言うけれども、、再度の人の救いは必要がない、。

某教えでは、イエス様は、メシアとして、し残したことがあって、
救いが完結していないから、、。

再度、再臨主として、イエス様はメシアとして生まれる必要があり、
今度こそは、、従順に従うように人々を教え、、、
どんなことをしてでも、、再臨主に従うように仕向け、
そにように洗脳状態にしてでも導かないといけない。
と考え、そう教えているけど、、500パーセント無意味、。

イエス様はメシアとしての使命を完全に果たし帰天され、
霊肉共に確実に人を救うべく、イエス様を信じ繋がる人に与えるために、、
生きた霊の永遠の命を与え、更には罪清める聖霊をもお遣わしになった。
だから、、イエス様以外の、新たな罪からの解放と救いは、、
もう人類には必要などないのです、。

でも、、イエス様は、2000年前、再臨する、、と仰った、。
それは理由があります、。
それは人の原罪からの救いの期間を短くするためであり、、
神様からのメシアとして与えられていた使命とは別に、、
イエス様、御自身が、御自分に課した新たな使命なのです、。

イエス様が、、人の罪による苦しみを、早く終わらせたいと願って、、
イエス様が個人的に、、イエス様を信じる人たちに向けて、、
私はすぐに来る、。と、約束をされたのでした。

でも、、実際には、すぐに来れないことを、
イエス様はご存知だったことでしょう、。

でも、、イエス様が、すぐに来る、。あなた方と共にいる、。
と、仰って、当時、生きていた人に、約束下さったから、
イエス様を信じた人は迫害が起きても、、
イエス様の約束の御言葉ゆえに力づけられ希望をもって
信仰を立て守り通してこれたのです、。

イエス様の、すぐに来る、との再臨のお約束は、すべて人のためでした、。
ご自身が来れない期間も、人がくじけないように頑張れるように、と

この世で生きる人の苦しみを思いやって、、なんとか軽くしたい、。
辛いときがあっても、希望を捨てないで欲しい、、と、、願って、、
イエス様の大きな愛を込めた人への約束が、、
すぐに来る、。共にいる、なのです。

する必要がない再臨の約束、、、、何度も言うけど、、。
本当なら、イエス様はわざわざ、人となって、また来なくても良いのです。

でも、再臨されるのは、、理由があって、。
イエス様が人の不信により、あと一歩のところで、
婚姻が完了できずに婚約までで終わって、御子を遺せなかったこと、。

イエス様が御子を遺されていたら、、
一人の人、アダムから原罪が人に入ったのと逆、、
一人の人から、原罪が消し去られるようになれた、。

似たようなことを、ある教えでも言っていますけれど、
それは、イエス様の救いが未完成だったからだと、、、
救いを完成させる必要があるので、、イエス様は、、もう一度、
再臨主として、生まれてくる必要があったと教えています、。
それは大きな違いです。

上で書いた理由により、、
イエス様は、再臨なさる必要は全然ないのですから、。

その他にも色々ある、どこそこの誰それが
再臨主で、どこそこの国に生まれたのなんだの、、あるけど、、。

それって、、とどのつまり、単刀直入に言えば、、
2000年前のイエス様はメシアではなくて、
新しく生まれてきた再臨主が、、、
本物のメシアだと言っているのと同じわけで、、、、。

そういうことを主張する再臨論や再臨論もどきは、、
私から言わせたら、イエス様のみ救いを否定している反キリストの教え。

私は、別ブログで、結果的には彼らと似たことを言ってはいる、。
再臨主は、空からくるのではなく、、人としてお生まれになる、と。

でも、、イエス様の救いは完全であるから、
再臨の必要の有無でいえば再臨は要らない、、とも、
ここで書いているようにはっきり言っている、。
彼らとは根本的に全然違うことを主張しています、。

再臨論を支持する彼らは、、十字架の救いの不完全さを考え、
再臨の必要性、、重要性をあれこれ言っている。
私は、イエス様の再臨の必要性はないし、
イエス様の救いは完全無欠であると言っている、。

本来はイエス様の再臨は、、まったく必要がない、。
イエス様の個人的な強い愛の想いによっての人との個人的約束だから、。
イエス様がマリアと共に残すはずだった神様の御子、、再臨主の御子、、
肉体に宿る原罪の救い、、を、人に与えるために、。

イエス様を信じクリスチャンとなった人は、、
肉体的には原罪の根があり、その罪の根がなくなるのは、、、
彼らの子の世代であって、、原罪がないとみなされてから、、
肉体の清めまで、肉体的にいえば1代余計にかかる、。

再臨主イエス様の御子であれば、
イエス様の時そうであったはずと同様に、、
その再臨主の御子も、御子と婚姻した人も、、その子孫も、、
その生きている間に肉体ごと、、罪が清められ原罪がないとみなされ、
クリスチャンでも、そうでなくても、、子々孫々にわたって、、
原罪からの解放が消えない、。

イエス様が再臨主として再度生まれて、御子をもうけるということは、、
現状での人が原罪からの救いをまず得るために、
クリスチャンでないといけない、
イエス様につながらないといけない、という、
今ある原罪からの救いの唯一の条件、、まで、取っ払うことになる。

つまりは、、イエス様が再臨なさるというお約束は、、
なんらかの宗教団体を作るためでもなく、
イエス様を信じてクリスチャンでないと救われない、、という、
わずかに残った、この救いのための枷、、さえ
消し飛ばすためのお約束なのです、。

イエス様が、、どれほど人を愛し罪からの救いを望み、
ご自身が人から崇められたいなどとは、欠片も思ってないことが、
わかると思います、。

現状であると、クリスチャンでないと、、まず原罪からは救われない、。
それから、原罪が人の肉体から消えるまでに、、
最低でも、子供の代にならないといけない、。
それで1代分遅くなって、
その1代分、、人から原罪が消えるまで、余計に時間がかかる、、。

イエス様のお気持ちとしては、、今、この瞬間に、、
人類すべてが、、清くなって
原罪から救いたいくらいの想いで、、おられます、。

でも、、物事には、、順序というものがあります、。

肉体の原罪を清め救うには、、イエス様が受肉されたように
清められた肉体での受肉が必要です。
そして、いくら再臨主イエス様でも、受肉し、
肉体を持ったならば、婚姻によらずしては子を得れません、。

再臨主イエス様が、、人として生まれ、子を得るには、
結婚して子を産み、、御子を育てて、
御子が、、誰かと婚姻し、御子をもうけて、、と
命のリレーを、、始めないといけないのですね、。

そ、、まるで普通の人のように、、です、。

それだけのため、、?
そう、それだけのために、、イエス様は再臨するのです、。
それは、、クリスチャンではない人も、すぐにでも救いたいからです、。
一刻も早く、すべての人を救いたいから、、です。

イエス様は、、ご自身を信じる人だけに救いを与えるような
小さな心の神様ではないのです、。

だから、、わかりますか?
クリスチャンでないと救われない。
他はサタンで悪魔、、という思考は間違いなのです、。
神様と、、イエス様は、、、全人類を愛しています、。

人類全員、一人残らず、絶対に救いたいのです、。
それが、、イエス様の再臨の真の意味であり、、御心です。

クリスチャンは救われる、、
そうでないなら地獄、、ではないです。

信仰心があり、神様の御心に沿って生きる人、、
神様を求め愛する人、、は、、天国に入れます、。
クリスチャンでも、神様に背き続け、神様をないがしろにしていれば、
救いは、、あなた方の蔑む異邦人、異教徒と呼ぶ方々より後になります、。

メシアは自分が偉いものだとか、
王だとか人に認めさせるのが目的ではないのです。
摂理の目的も同じで、人のために、救いをもたらすために存在すること。
人が知ろうが知るまいが、、人を救うこと、、が目的、。

だから 自称する必要が無い。
極論するなら、再臨主の家族さえも、、、それを知る必要がない、。

誰も知らないでも良いのです。
再臨は、、再臨主イエス様が、ごく普通の人のように産まれ、、
人知れず、御子をもうけて育て、、、
人に無原罪の御子を、そっと、、与えることが目的なのですから、、。

なのでメシアと名乗る必要性も、まるでありません、。
だから、、偽メシアが現れても、信じるな、、と、、
2000年前、イエス様は仰ったのです、。

本物の再臨主は、、
イエス様の御霊と共にあり、、そのことをよく知っているので、、
絶対に自分から再臨主であると名乗りはしないし、
ましてや宗教団体も作りません。

また、お金も物すらも、
何一つ、人々から求めたり集めたりしない、。
信徒と呼ばれる存在すら、存在しない、。

あるのは、神様への従順な一途な思い、。

ふふ、、現代の自称メシアに、、
本物は、、ただの一人もいない、。
彼らは、信徒と師弟関係であり、神様ではなく自分を、
まず崇めさせている、。

メシアと名乗った時点で、、金品を求め集めた時点で、、
最初に、、どんなに志が高かろうが、
清い心から始めたのであろうが、そこでアウト、、なのです。

起きることといえば、、2000年前のイエス様の再臨に気づいた人々が、、
それを信じて、そう告白し、
父さまとイエス様の御名を褒めたたえるだけです、。

イエス様も、父さまも、、教団とか信徒を作り上げて、
力づくで、強制的に礼拝させたり金品を巻き上げるつもりなんて、、
からきし無いのです、。

あるのは、、、人類すべてを一刻も早く、、、
原罪の苦しみから解放し、救うことのみ、。


イエス様の時、清められ、天使によって天に上げられ
聖別されたその肉体を再臨主はまとい無原罪の状態で産まれてくる、。
それを用い、その清い血筋により、、
物理的に肉体ごと救われたなら、その人の子孫すべては、、
永遠に原罪から断ち切られる、。サタンは、、取り返せない、。
どんなにあがいても、、。

某教えでは、、こんなこと言ってないでしょ?
再臨主がどうして無原罪で生まれてこれるのか、説明できない、。

生まれた時、とかどこかで聖霊を受けたとか??クス、。
神様が神様を清める?ありえないです。ナンセンス理論。
その理論の時点で偽物だとわかる、。

胎中聖別は、、ないの、。
聖霊に満たされた人、御母マリアの母アンナとか
ヨハネの母エリザベトは、
生まれながら聖霊に満たされた子を生んだ、。

母が、まず、聖霊に満たされて、その状態で懐妊し、
その聖霊がそのまま、子の霊と合わさった状態で、
共に生まれてきていた、。

私が別ブログで書いている、新生輪廻と同じ理屈、。
新しく産まれてくる赤ちゃんの霊に、
聖霊が自分の霊を合わせて共に産まれてきてたわけ、。

聖霊と共にある子は、、肉体に於いては、、
聖霊に満たされてない方の片親から来ている原罪の徴が残ってあっても、
聖霊の守護を受けて、一代限りだけど、無原罪に近い状態になっていれた。

聖霊に満たされ御母マリアを産んだ母アンナの場合は、
聖霊に満たされ生まれながら無原罪の胎を持つ者、、
御母マリアを生み出すための聖霊の満たしだった、。

御母マリアは、母アンナの時から降った聖霊に
生まれながら満たされており、
無原罪の胎を生まれながら持つ選ばれし乙女、。
イエス様ご自身は元々無原罪の神様であり、胎内で清める必要はない、。

これは親から子への血筋による聖霊の霊的継承、。
胎中聖別は、聖書ではなんら当てはまらない、。
どの場合も、先に信仰深く祝福されて、聖霊に満たされた人が有り、、
その人の子が、生まれながら聖霊に満たされて、
祝福された者、神の人、として産まれてきていたのだから。

胎内で聖別ではないのよね、。
生まれながら聖霊が宿っている子だもの。
母が聖霊に満たされて、
子の霊に聖霊が合わさって産まれてくる、。から、、
聖霊に満たされた子を用意するためには、
その子の一代前から手をくわえなければならず、余計にかかる、。

有名な人物では、サムソンとか、、預言者サムエル、がそうです。
母親に当たる人が、、必死に祈り願って聖霊に満たされて、子を宿し、
彼女らが産んだ子が、神様の霊に満たされて生まれてきていた、。

今までも、聖霊による清めと聖霊に満たされ、
罪から清められた人の子の出生は、一代限りではあるけれど
実際的に聖書中であったのです。

だから、私が、クリスチャンの子、2代目は原罪がないとか、
3代目には、原罪の関与が薄れる、、と言っているのは、
聖書的は根拠がゼロではない。
上で説明している通り根拠とする理由がある。

それを、、再臨主は永続的に全自動で全人類規模で、、
いずれは行われるようにするために、来るわけです、。

クリスチャンの場合は、、上で書いたように、、
罪がない無原罪の状態になるまで1代かかり、
親は原罪があるままであるから、少なからず影響があり、
その子、、孫の代になって、原罪からの影響が薄れてくる、。

つまりはクリスチャンの子が再臨主の御子と
似たような状態になれるまで3代はかかる、。
3代目、、孫の代になって、やっと、原罪の影響が薄れてくるから、。
クリスチャンになって、罪がないとみなされた霊的な救いから、、
肉的な原罪からの救いへの事実上の期間は、2代目ではなく、、
当初の初代のクリスチャンの親から数えて3代目になる。

イエス様は、その3代もかかる清めまでの期間を、短くするために、
生まれながら、無原罪の御子を与えるために、再臨を約束されたのです、。

肉体の救いが伴わない霊的救いが、洗礼と聖餐によって新生したとされ、
肉体的な救いに変換されてから、1代では足らなくて、、
親自身、その子とで、実質2代分、余計にかかってしまうから、。

生まれながら罪がない完全なる無原罪の再臨主イエス様の御子であれば、、
その子も、孫も、、同じように無原罪の御子が生まれ、、
サタンはおいそれと関与できない、。

生まれながら神様の子として生まれ、、、彼らと結婚する人たちも、
その子孫も、永遠に無原罪の子らが産まれ続け、、
いずれは世界に、、満ちる、。

今は国際結婚も多い、。
それ故に、、いずれは、、再臨主が生まれる日本だけではなく、、
国をこえて、、宗教をこえて、、民族をこえて、、
世界の隅々にまで及ぶ大きな救いとなっていく、。

父さまの与え願われる救いは、、果てしなく大きいのです、。
イエス様の与える救いは、、
信じた人、、だけに与える小さな救い、、では終わらない、。

父さま、、そして主イエス様、、、
愛大きお方、、あなたこそ真の神、、愛そのものなるお方。
すべてを愛し、すべてを愛と救いで包むお方、、。

私の命も、、なにもかも、、あなたの御為に、使わせてください、。

主よ、、あなたの御心がなりますように、。
私は、、あなたの端女です。

マグダラのマリア

応援ポチッとして頂けると(^_^)v(*^_^*)(^_^)v
猫になって喜びます。(=^・^=)V