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2020年02月12日 (水) | 編集 |

偶像礼拝とは?

> アダムとエバの犯した偶像礼拝が人の原罪です。

偶像礼拝とは、物を拝むことだけでなく、もっと広い意味で、神様を抜きにして、人間が勝手に決めた正義を信じること」と考えていいと思いますか?
例えば、「人間は他人に迷惑をかけなければ自分の欲望に忠実であってよい」という理由で、夫婦間以外での性行為を正当化するのは、偶像礼拝と同じで、正当化できない。と私は考えています。

ーーー

ご質問ありがとうございます、。
うーーーん、。
微妙というか、、なんとお答えすれば良いかなぁ、。

原罪と、、姦淫の罪は、、似てても同じではないのですね、。
原罪は、死んでもいいからと、サタンのそそのかしに乗った
人の命がけの神様への背きの罪なのです、。

聖書では、偶像礼拝を、姦淫と呼んでいます、。
それは、人の原罪は、サタンとなった智天使とアダムとエバとでの、
性的な罪により作り出したものだからです。

知恵の木の木の実は、、智天使だったサタンの比喩で、
神様が必ず死ぬからと仰った御言葉を退けて、
サタンの、死なないと言った言葉の方を信じたことです。

神様ではなく、サタンを、自分の信じるべきもの、、
自分の主人として神様を捨ててしまうこと、それが俗に言う偶像像礼拝で。

神様以外のもの、、我欲、お金、名誉、地位、支配欲、、
色々と、人間には欲がありますけど、。

それらを、自分の生きるよすが、、自分の心の中心にして、
神様が人に与えた規律や法に対し悪いと知りつつ背くことなども、、
悪魔の言いなりになり、神様の御言葉、戒め、法に背き
神様を意図して捨てることであるので偶像礼拝となります、。

人同士の姦淫の罪は、、人の欲望、肉欲から犯す罪です、。
たまに、命がけの場合もありますけど、。

罪を犯す対象者は神様あてではないですね、。
生きている人間相手に、、です、。
こういうのは、偶像礼拝というより、罪といいます。
簡単に言うと、対人であるか、神様に対してであるか、
ウエイトが大きい方が、、優先されるかと、。

神様なんか信じない、とうそぶいて罪を犯し、、
神様を恐れぬ悪党なら、神様を、最初から捨てているので、、
偶像礼拝ですかね、。

まずいよな、。バレたら、どうしよう、、と
神様のバチが当たると、ビクビクしながら、心の意思が弱くて、
罪を犯して、神様を、曲がりなりにも意識している場合は、
」まだ、神様を捨て切ってはいないので、、罪の範疇になるかと、。

でも、人の心は人には、わかりませんから、、。
最終的なご判断、ご裁可は、父がなさることですが、。


このような、回答で、よろしいでしょうか、、?
疑問があればご質問くださいませ、。


追記
罪というのは神様にむけてではない
人に対して害意をもって行う事です。
人に悪意を持って、酷いことをすることです。
殴る脅す騙す、奪う陥れる、嘘つき、ごまかし。

これらの悪を、犯す時に、だいたい大義名分を掲げて
こういう理由があるから正しいと言います、。

自分は悪くないと、神様を含め
人に、納得させようとして大義名分を掲げます。

例題のように人に迷惑をかけてないから
良いでしょー。自分たちだけの問題だし、と言い張るのは
心のどこかで罪だとわかっているけど、
それを神様と人に対してごまかそうとしている状態です。

神様を曲がりなりにも意識しているので
罪を誤魔化そうとします。

なんだかんだと言いながら
神様の存在を認めているわけで、神様への
多少の後ろめたさがあるため、多少は
周りと折り合いをつけようとします。
このような内面の働きがある場合は罪に分類されます。

偶像崇拝も、人の犯す罪の一つなのですけれど
偶像崇拝というのは、人に迷惑を、、云々前に、
神様に対して、神様を認めない。
神様は居ない扱いなんですね。

悪魔はエバに決して死なない、と
ようは神様は死ぬと言ったけど嘘だよ。と
神様を完全否定していて、

それに同意して犯した罪が原罪であり、
サタンに従う偶像崇拝なのです。

だから偶像崇拝レベルの罪というのは
神様を神様とも思わず、無神論的思考で、
自分さえ良ければという行動、思考、言葉を、発することです。
神様の存在無視なので思いやりなどは皆無となります。
周りが自分に、合わせて当然という思考レベルです。

罪と偶像崇拝レベルの罪の違いは、、
神様を裁く御方として認めているか、いないか、の
差異しかないので、分かりづらいと思います。

罪と偶像崇拝を聖書的に定義すると、
こういうことになるのですけど

例題の自分の欲望を押し付けることに関して、いえば
人に迷惑をかけてないからという大義名分を掲げているので
神様と人を騙し誤魔化そうとしているので罪レベル。

同じように自分の欲望を押し付けるようとしてるのに
なんの大義名分もなく常に自分の都合で
強引オンリーであると神様不在扱いなので偶像崇拝レベル。

罪も偶像崇拝も、同じ罪のひとくくりですけど。
偶像崇拝レベルの方が良心の呵責さえ感じてない、心で痛みを感じたり、
何も感じず贖罪もしてませんから。

同じ内容の罪同士であれば
神様不在の偶像崇拝レベルの罪の方が罪は重くなります。
同じ罪内容でも神様のご存在を受け入れるか
受け入れてないかで、対人的な悪意の度合いも違ってきます。


マグダラのマリア




2019年05月27日 (月) | 編集 |
ファラオから、男児殺害の命令が出されているのに、
なぜモーセの兄アロンは助かっているのか。

聖句中に答えがあります、。

男児殺害の命令
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」

1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」
1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。
1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。

◆モーセの生い立ち
1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」


最初は、ヘブライ人の助産婦に男児殺害を命じたけど、
彼女たちは、命令に従わなかったので、ファラオは全国民に命じて
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。
女の子は皆、生かしておけ。」と再度、男児殺害の命令を出した、。

アロンやミリアムは、助産婦たちに命じてたころに生まれて、モーセは、ナイル川に放り込めとファラオが言った頃に生まれたということ、。
アロンとモーセには、3歳の年齢差がありますから、。

(参照箇所 出エジプト記 7:7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。)

ついでにモーセのこと、。
割礼も生まれて、8日目にするものであるし王女に拾い上げられる前には済んでいて、モーセが自分の素性ヘブル人だということは実の母が乳母だったので、彼女がモーセに教えたのでしょうね、。

エジプト人を打ち殺したことを、モーセは王子の身ですから、お付きの者がいたはずで、その人がエジプト人なら、、エジプト王に言うでしょうし、
おしのびで出てたにしても、エジプト兵から打たれてたヘブライ人はそれを見てたわけです、。

人殺しは、戒律破りですから、。
ヘブライ人に、噂が広まって、ヘブライ人の噂を聞いたエジプト兵が、ファラオに告げてもおかしくはないです、。

あと、モーセの殺人が故意であれば、、神様は、モーセを召命できません、。
過失であったから、本当は40歳での召命のはずが、
倍の80歳の時に召命を受けることになった、。

倍、、の期間を待たされることで、、モーセを殺そうとしていたファラオが亡くなり、、ファラオは祭儀を執り行う大祭司の役目もあったので、、大祭司の彼が亡くなったことで、

↓逃れの町の規定が、適応され、モーセは、エジプトに帰ることができるようになった、。

民数記
35:28 なぜなら、人を殺した者は、大祭司が死ぬまで、逃れの町のうちにとどまらねばならないからである。大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる。


マグダラのマリア

 

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2019年05月03日 (金) | 編集 |

地獄と、天国について、聞かれましたが、、。
そうねぇ、。
地獄も、天国も、在るけど無い、。
無いけど在る、。としか言えないなぁ、。

地獄は在ると思って、、慈悲深い想いでいた人にとって、
死んだら地獄はないし、。

自分の生きていた間の慈悲深い心が、
そのまま自分の死後の移行先の世界になるからね、。
慈悲深い人ばかりがいる世界が地獄なわけないから、
誰が見たって、天国、。

地獄はない、と思って、自分勝手に生きてた人にとって、
死んだら、天国はない、死んだら、地獄行き、。

自分さえ良ければ思考でいたら、、
自分の生きていた間の自分勝手な心が、
そのまま自分の死後の移行先の世界になるからね、。
自分勝手な人ばかりがいる世界が天国なわけないから、
別の人が見たら、地獄。


みんな自分は善人、天国に行って当たり前、と思ってるからねぇ、
私も、救われる前は、そう思ってた、。笑
クリスチャンとして、努力して、
いい人でいようと頑張ってきたからって、自己採点してた、。

こんな感じで誰かから、地獄に行くからね!とでもいわれなきゃ、
自分の心のあり方を、見つめたり反省したりなんてしないからねぇ、。
地獄にご用心、ということで、、地獄に行くよ、、と、
私は記事を書くんだけども、。

私の場合、自分は良い人間側って思ってたんだけど、。
女友達に騙されてたことに気づいたら、、心のタガがぶっとんで、
それまでの自分とは真逆の、行動に出たわけよ、。

五寸釘で、藁人形をコンコンするが如く、、
死んじゃえばいいのに、、憎たらしい、。って悪の心が、、
ドロンドロン、表に出てきてね、。

こいつが、私の本心、本性か、、?!
こんなに神様に背いてて、、心も汚くて、、
こんなんじゃ、天国は無理だわ、、と、、
地獄行きに諦めついた、。
地獄行くしかないわ、、、って、。

地獄に行くこと、それは、自業自得で仕方ないことだけど、、
地獄いくと、、神様とは一緒にいれないんだよね、。
神様と一緒にいたかった、。

もう、無理だけど、。
お父さんて呼べないね、。
こんな私にお父さんと呼ばれたくないよね、。
と、気づいたらね、。

涙が、溢れてきてね、。
バカなことしたな、、、って、思えて、
罪の重さも重くて、辛くて、悲しいしで、、
身心がぼろぼろになるまで、自分を責めた、。
馬鹿だった、、って、神様から離れちゃって、悲しいって。

ただただ、神様が、、欲しい、。一緒に居たかったって、
自分が神様という救いを必要だって、、
すごくすごく、思って、求めて、泣いてた、。

精神世界的、そこには私にとって苦しみしか無く、
私が創造した地獄が形成されてて、そのまま死んだら、、
リアル地獄に、そのまま移行してたわけよ、。

生きてた時の心の状態が、そのまま死後の世界の同じ思考レベル、
同じ愛レベルのところ、、に自分が死後に生きる世界になり、
そこに通ずる、。

簡単に言うと、生きてる間の自分の心のあり方と同等の世界に行くのよ、。
不安で、怖い怖いと思う人は、死んだ後も、そういう世界へ行く、。
幸せで感謝しかない、と思う人は、死んだ後も感謝と喜びの世界に行く、。
気に入らないから、といつも喧嘩腰の人は、死んだ後も、周り中が喧嘩腰の人がいる世界に行く、。
怒って感情丸出しで、、激怒ばかりしている人は、死んだ後も、掴み合い殴り合いの人がいる世界に行く、。

ようは、死んだら、、、生きている間と同様に、
類友の法則に従って、、自分の分身のような
似た者同士が、同じ世界に集まって、、人を変えては、
生きてた時と同じことを延々と繰り返す、。
それが、虚しいことだと、自ら気づくまで、、永遠にでも、。

自分の分身のようなもの同士、、
人は神様から命の核として同じ魂を戴いている、。
各自個性があるのは、霊の部分があるから、、。

霊の部分は生きてた間に出来た個性、自我がね、、あるのね、。
自分が、、、って思う想い、。
自分も、人も、魂は、同じもの、、。

自分の分身のようなものなんだから、、
人を殴れば、自分も痛いだけ。
自他の区別をしているうちは、、悟りの程度は低い、。

自分自身を憎み、罵るバカは居ない、。
自他の区別は、するだけ、アホって、分かるとね、。
感情論で、人に話をすることは減る、。

相手に必要だと思うから、言うまで、。
自分自身に義務や軛を負わせたくないからね、。
言うには言うけど、、、やめるのもやめないのも、
その人の表面意識の自我さんの選択の自由だから、、
ご自由に、、、ってなる、。

地獄と天国というかね、。
自分の心のあり方が、
そのまま自分の天国にもなるし、地獄にもなるの、。
どっちの概念も、、ぶっ壊すことが出来たら、、
釈迦と同じ、解脱組。

死んだら天国に行きたいと言いながら、
地獄に行くかも、、と人は恐れて思ってるし
このままじゃ地獄に行く、と言いながら、
なんとかして天国にいきたいと人は切望するものだし、。
地獄の沙汰も金次第と思ってるようなのは、地獄一択だし、。
地獄も天国も神も仏もいないと思ってるのも、地獄一択だし、。

天国も、地獄も、、人に、悪しきことを避けて
良いことをさせるための概念を生み出すための教え、。

天国も地獄も、、あそこにここに、在るという類のものではなくて、
自分の心から生み出す世界と呼応する世界へ行く、と言うだけの話。
だから、在るけど、ない、。無いけど在る、。

天国にいく、人にとっては最高の至福の世界、。
更に上の天国もあり、天国にも段階が在る、。
一番の至福は、、神様の御座所、
聖所の間近にいることが許されること、。

炎の壁、ケルビムの持つ炎に灼かれても、耐えたものだけが行ける世界、。
そんな義人、今の世に、、いるんだろうか、。
イエス様ご自身と、
きたるべき御方、再臨主イエス様だけは、素通り出来るのだろうな、。
顔パスで、。

其の火は、、最下層の地獄の火、ゲヘナの火、
炎の燃える池の炎と同じもの、。

自分が極悪人だと、痛感したら、、
自分の心が生み出した、最下層の、、地獄に心ごと落ちていく、。

別の時だったけど、。夢の中で、真っ逆さまになって
地面の下の方に落ちて行ってた、。
私は、地獄の最下層にまで落ちていった、。

他の人は誰も見ないで、よいようにされていた、。
私が怖気づかないようになのか、、鬼も悪魔も何も見なかった。
見た、、のは数人の門番らしき天使だけ、。
門をくぐったら、大きな炎が燃え立つ炎の池があった、。

自分で、その炎の池に飛び込んだら、、向こう側に、
父様のお姿をした、、自分の魂が居た、。
魂は、、神様から直に与えられし清きもの、、。
人の中にあっても、穢れなき部分、命の核、。

私の火の洗礼は、、それだった、。
罪が在ると認めるなら、その炎の池に、自分から飛び込め、と、
ハイと、即答して、飛び込みましたわ、。

飛び込む寸前に、今なら、まだ逃げれるぞ、って声がしたけど、
無視して、目をつぶって、眼の前の炎の池に飛び込んだ、。

目を開いてみたら、どこも灼かれても、怪我一つしてなかった、。

地獄に堕ちていく時、背中に翼が生えていて、黒く染まっていたけど、
白くなってた、。心の翼、の色だったのね、。
自分の心が視覚化して見えたのかな、、と、。

その炎の池の地獄に落ちる前に、
飛び込むときに、少し動揺したけど、、
神様の命令には絶対服従、、と思ってたから、。

飛び込むことへの苦痛は、ほとんどなかった、。
ほんとの死、霊的に死ぬのかな、それとも、
このままリアルな地獄に行くのかな、、くらいは
一瞬、思って動揺した、。

すでに、救いを得たあとで、、地獄に堕ちて当然と思っていたし、
当時は、子どもたちは、安全な環境にいたから、
私が居なくても生きていけると、判断して、命乞いはしなかった、。

私という自我の塊でしかない私は、このときに、
自分の魂に、完全に主権はお返しした、。
神様に従いますと、。
その証拠に、罪を認めて火の池に自ら飛び込みました、と、。

いまある私は、自我欲は無関係、。
自分であって、自分ではなく、、
一切合切、神様の言う通り、、としか思わない。

自分自身より、神様の方が大事、。
あんな苦しい世界から、、救って頂いたから、。
少しでも恩返しできたら、としか思わないもの、。
そのくらい、心の地獄は、、精神世界の地獄は、、
しんどかったってこと、。

地獄も、天国も、自分の心次第、、、。
このでの行いは、関係が、、、殆どない、。
常に、、自分の心がどうあるか、が、
自己の住まう精神世界を作り出すのだから、。

その精神世界が、、愛深き世界なら、天国に近づき、
愛が薄ければ、地獄へと近づく、、。
シンプル、。

ただし、ほとんどの場合、自分で、
その世界が天国とか地獄とか、明確に認識できることは稀、、、
自分で、居心地が良いと感じる世界、を、、
人は、、、天国のようには感じるから、
気づくまでは、自分では、、そこがどこなのか、、は、わからない、。

霊界の地獄の火は浄化の光なのよ、。
光が、、炎のように感じるだけで、、実体は、神様の光なの、。

地獄もね、天国と同じに、神様の光に溢れているけど、。
罪のせいで、業火に灼かれてるようにしか感じないのよ、。
自分が心を閉ざして、神様要らないと思っているから、、、
周りも闇が濃く、暗くしか見えないし、。

ホントは、光がある天国と同じところ、
同じ空間が、ある人には天国だけど
ある人にとっては地獄のようにしか思えない、。

天国も地獄も同じ場所同じ空間に在るのにね、。

罪があるかないか、、罪を自覚し悔いたかどうか、、
それだけの違い、。

罪、あります、、ごめんなさい。と深く悔いれば、
罪なき如くに扱われ、救いを得、、。
悔いなければ、罪ありのまま、救いは得られずじまい、、。

心底、悔いる、というのは簡単なようで難しい、。
ただの悔いではなく、自分自身に絶望するほどの
落胆後の、、悔いでないといけない、、。

自分が最低の人間ですって、、
自分で自分に判子押すのはね、。
しんどいの、。
すっごくしんどいの、。
心が圧縮されたように、、潰れるから、。


言葉は、方便でしかなく、、、。
自分の心のあり方こそが、大事、。

自分に良い部分があるなんて、傲慢な心が残ってるうちは、
真剣に、、神仏を必要とは、しない、。
自分で作り出した居心地の良い世界で、、安寧を求めて終わり。

極論すれば修行が好きな人なら、、
修行しまくる世界で、死後もご満悦で過ごす、。
堕落して当たり前の人は、同じ様に堕落が好きな人同士で、
色情欲や金銭欲、暴力による支配欲などを相互にぶつけあって
満足し合うのでしょう、。

それが、自分が一番居心地がいい世界だから、、
くすくす、。事実に気づかないって、、
幸せであり、、不幸でもあり、。

自ら過ちに気づくまで放置されるわけで、
神様の慈悲であり、厳罰ですが、。

人間は、、自分は地獄に行くしか無い、って、
がーっくり絶望して、やっと、神様の方を、、真剣になって向く、。 
神様、、あなたに従います、、あなたが必要です、
と、、へりくだれる、。

それまでは、、自分が、、と、
自分の思考、自分の行動、自分の言葉が、、、
世界一で、正しいと思って、
聖書の規範や、仏法の戒律を守ろうとすらしない、。

人が見えない裏では、心で、あかんべーしてるし、、
聖書や聖典と呼ばれるものに書かれてる
人間同士、これはしたらだめだよ、、ということを守らない、。

陰口、二枚舌、、名指し批判、
あざけり、、ののしり、誹謗中傷、。
自分が正しい側だと思ってるから、、してること、。

そう思ってる人の本心は、、
あの人よりも、この人よりも、
自分の方が上って思いから出てて、人を見下す思いから出てる、。

その人を見下すような想いを、、
間違いです、傲慢ですって自己反省する人は稀。
そういう小さな間違いを放置し続けて、
最後は、大きな広い門が在る地獄へと堕ちていく、。

小さくても、大きくても、
思考の間違いを犯せば、間違いで、それを放置し続けたら、
行いも間違うし、思考もずれていく、。

自分は正しいという温泉に、
どっぷり浸かったまま、人生を終わる、。

小さなことでも、自己反省して、
思考を真ん中、中庸のところに戻しておかないと、
どんどんと、ズレていく、。

思考のズレは、、小さなものでも放置するのは、恐ろしい、。
自己反省は、すごく大事な要素、。
悪く悪く自分を追い詰め過ぎず、
このくらいいいでしょ、と甘やかし過ぎず、真ん中思考でね、。

自分が正しいと、わずかでも、想うようなら、サタンの勝ち、。

自分はこう想う。他人が同調するかしないかは、自由、。
自分の思考が正しいかどうかは、神様の御裁可に委ねると
謙虚に思うことが大切、。

かりに、自分の思考が最善だと思ってても、
人にそれを押し付けたら、
それは、その人の選択の自由を奪うことになるからね、。
それはしたらいけないことだから、。

だから、、私は持論を人に押し付けないし、、
同意も求めてはいない、。
そりゃ、人間ですからぁ、、同意してもらえたら、
ありがとうと感謝はするけどね、。

ま、、人間が、全員同じ思考で一致すること自体が、難しいからね、。

昔は、イスラエルでは年配の長老が、
人の仲裁役をして、、ゴタゴタを収めた、。
それでも駄目な時は、祭司のもとへ行き、、定められた法で
裁定し調停した、。
祭司の裁定に、人は従った、。

イエス様の時は、ファリサイ人やサドカイ人らは、
言い逆らったりしてたけどね、。
イエス様は、、数える程度の数回だけ、
裁定をしてたわけじゃなく、何度も、数えきれないくらい
ファリサイ人らは、イエス様に裁定させて、

モーセの法に背いてないか、試して意地悪をしていた、。
聖書に記録されたものはごく一部、。
ファリサイ人らが、イエス様に裁定させても、
一般の民は、物を申していない、。

イエス様に人を裁定し調停する資格が無かったなら、
一般の民は、、イエス様は、レビでもアロンの血筋でもないのに
なぜ、裁可を下せるのか?と言い、イエス様の裁可に納得することも、
従うこともなかったでしょうね、。

神殿には、他のレビ人や祭司もいたわけだから、、なんで
そちらに行かないで、ユダのイエス様のところに行く?と
不満が出たはず、。

イエス様が、祭司ザカリアによる、肉的においては
大祭司のアロンの血筋だから、、

誰ひとり、ファリサイ人らが、イエス様に裁可を求めに行くことを、
おかしいと、いう人が居なかった、。

また、イエス様の母マリアは、ユダ族のヨアキムの一人娘で
ダビデの嗣業を相続する立場であったから
長男と同じ扱いを受け、御母マリアから生まれただけで、
マリアの子は、全員ダビデの子孫でユダ族となる、。

しかし、もとから、アロンの血筋の親族エリザベトが、
親族に居たのだし、アロンの妻のエリ・シェバは、ギリシャ語だと、
エリザベト、。誰かの妻と、同じ名前です、。

彼女は、ユダ族で、最初から、アロンの血筋とユダの血筋は、
血統の交差があり、、親しい血筋であるので、
イエス様は、ダビデの血筋とアロンの血筋をもとから持つけれど、
祭司ザカリアを通して、明確なアロンの血筋も受け継いでいた、。

現代は、、近所付き合いや、長老などのご意見番、、
人同士の仲裁役が出来る存在がおらず、
ごたつくね、。

自分が、と自分の意見をゴリ押しする年配者と、
嫌だと反発する年配者と、
そんなのどうでもいいから、、決まったら、
それに倣っとくよ、、の、、三つ巴になるからね、。

この世でさえ、我慢できない人が多くて、ごたついてるからね、。
自分の本心が、綺麗事無しで、ガラスのように、すべての人に
見えてわかってしまう霊界では、、どれだけ、ごたつくかしらね、。

だから、、無駄なことはやめないと駄目と、最短で分かるように、
自分と似た思考と行動と言葉を使う類友同士が、
切磋琢磨して、互いに学び合う地獄という部分が、、
今の現状では要なわけ、。

本来は、存在しない地獄だけどね、。
未熟な魂同士の修業の場として、存在してはいる、。


地獄話に花が咲いてるだけじゃ、暗いわ、、
面白くないわ、、、で、、つまんないだろうから、。

ひさしぶりに、、おまけのスピ話と、、
再臨主預言のことも、、書いておきます、。

今は、神様から遠く離れた、鉄時代で、、
古代の神様と心ともにあった黄金時代と比べたら、、
人間性は、、、堕ちている、。

何度も、栄枯盛衰を繰り返し、滅んでは、やり直して、
ソドムとゴモラを滅ぼした天からの火って、、
小規模の核爆弾並みのなにか、、でしょ、。

人は宇宙人と、よく思っているけど、、
リアル宇宙人は、肉体がない霊的存在だから、、宇宙『人』、とは言えない、。
シャンバラ、、アガルタ、、アルザルと呼ばれるプラズマ空間の世界は、、
地球の内部空間にあるし、物理的にいう太陽にも、
プラズマ空間でつながっている、。

古代の叡智はスフインクスとギザのピラミッドの中にあって、、
まだ見つかっていない、。

詳しい人は、、知ってるかもしれない、。
エイリアンバイブル、、というものを、、、




それ、古代ヘブライ語で書かれた、未知の金属に書かれた旧約聖書、。
遺伝子的には、、地上で、一番彼らと近い遺伝子を持つのは、、日本人だとか、。
このマーク、、コンパスと、プロビデンスの目、、ですよね、。
フリーメーソンのマーク、
日本はセムメーソン、、。
イルミナティ、ロックフェラーと、、、メーソンは同根だけど、別組織、。

イルミナティは。。人為的にハルマゲドンを起こして、
一刻も早く神様の千年王国を、樹立して、ついでに
自分たちが支配しちゃおう、。って思考で、
目的達成のためなら、古代の封印された悪しきものまで、
呼び起こして使おうとするトンデモ思考、。

普通のメーソンは、そういうこと思考してない、。
古代の叡智は、すべての人が知るべきで、
人類は無知な状況から覚醒するべき、。
という感じで思ってる程度、。

同根だけど、基本思考が、まるで違うのよね、。
かといって、、表立っては争わない、。
一応、同族だから、。
人々の意識を覚醒させることで、
イルミナティの野望を阻止しようとしてる。

地上から消えた、10氏族の大半は、、
チベットから、アルザルに行って、、、
地上を監視するための八咫烏を、送り出している、。

彼らが、日本メーソンの中核。イルミナティと違い、
表舞台には、、出ない、。
 日本人の元になった一部の民は、彼らのもとへ行きつき、
一部は、、日本人の元となった、。

太陽には、エノクの神殿もある、。
それが、、この世の滅びのときに、、天から降る、、
天のエルサレム神殿、。

エズラ記
13:45 その地方を通り過ぎる道のりは長く、一年半に及んだ。その地方は、アルザルと呼ばれている。
13:46 彼らは、最近までそこに住んでいたのである。そして今、彼らは再び帰国の途につき、
13:47 いと高き方は彼らが渡れるようにと、川の流れを再びせき止められた。あなたが、平和のうちに集まった群衆を見たのはこのことだったのである。
13:48 しかしあなたの民の中で残されて、わたしの聖地に見いだされる人々も同様である。
13:49 そこでわたしの子は、集まった諸国の民の群れを滅ぼすとき、残された民を守る。
13:50 その時、彼は、おびただしい奇跡を彼らに示す。」

13:52 「海の深みに何があるかを、だれも調べたり、知ったりすることができないように、地上のだれも、その日まで、わたしの子や、彼と共にいる人々を見ることはできない。


これね、、再臨主預言だよね、。
わたしの子、、、とイエス様以外だと、再臨主しか、当てはまれない、。
滅びのとき、終わりのときに、現れる再臨主、。

再臨主と、共にある人々は、、、その時が来るまで、、
誰が、再臨主であるか、わからない、。
見ることすらできない、。

だから、、自称したら、アウトなのよね、。
某国の元教祖は、自称してたけどね、。
滅びの時、間際まで、だれにも 
わからないままのはずなんだから、。

それに、海の深み、、
周りを、全部、海に囲まれている国は、日本だしね、。
日本に、、失われたアークも、、ある、。
某国には、三種の神器というものは、存在すらしない、。

地上のものは、、地上に置いておくままのはずだから、。
無いのは、真っ赤な偽物、、、。
いい加減、B氏の親族や関係団体らに、
騙され利用されていることに気づこうねぇ、。

まだ、、日本人の作った新興宗教のほうが、、
お金を奪うためや、自由を奪われて、、
奴隷のような扱いを受けて殺されないです、。


マグダラのマリア

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2019年02月28日 (木) | 編集 |
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疑問が解けてないこと、まだまだ沢山、、、。
 
旧約聖書を見ると、、アルパクシャドの子、はシェラ、。
ルカによる福音書を読むと、、アルパクシャドの子、はカイナム。
なんで?ってなるでしょ?
1アダム、2 セト、3 エノシュ、4 ケナン、 5マハラルエル 、6 イエレド  、7エノク、8 メトシェラ、 9 レメク 、10ノア 、 11セム、12 アルパクシャド、 13 カイナム、14 シェラ、。
 
↑12代目アルパクシャドの子、はシェラなのに、
居ないはずのカイナム(アダムから4代目のケナンと同じ意味の名前)が13代目としてルカの系図に挿入された、。
 
ヨセフの例で考えてみて、、と、ヒント貰えて、、
とりあえず、シェラの子エベルで、聖句検索してみたら、、
創世記
10:21 セムにもまた子供が生まれた。彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。
 
はぁ?
そりゃあ、ひいひいお爺ちゃんだから血が繋がってますけど、。
なんでアルパクシャドが出てこないで、
シェラの子のエベルの名前が出てくるの?間抜けすぎでしょ、。
なんで??と、、また、疑問が、、、
こんなややこしい聖句書いてあるから、、ややこしくなる。
ヤコブの子と系図には書かれたけど、
実際にはルベンの長子だったヨセフの故事のように、
シェラがカイナムの子なら、、。
 
カイナムとアルパクシャドの妻か側女とで、、
シェラが生まれたのなら、、カイナムは、
実父でも、アルパクシャドの妻から生まれた子のシェラは
アルパクシャドの子とされるので系図からカイナムの名前が省かれてもしょうがない、。
 
でも、真実を書くなら、
カイナムとアルパクシャドの妻から生まれたのがシェラでも、
カイナムはシェラの実父なわけだから系図に書くわけだし、。
 
カイナムが、系図に書かれたり抜かされたり、は、
シェラの実父が、、アルパクシャドではない、、ということ、
そういう事例があったと神様が、後世、わかるように、、
色々な系図を残すようにされた。。。と思考すれば辻褄合うけど、。
創世記
10:21b 彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。
 
この聖句、、意味わからん、。
なんでここで、ひひまご、、のエベルが出てくるわけ、。
いつまでも、謎が、少しも減らないわ、、。しくしく、。
 
それと、最初、妻が一人なのは、
ノアから1代目のセム、ハム、やフェトだけで、
あとは早く子を作らないといけないので、
妻は複数人、居たと想います、。
 
娘や息子をもうけたと、記録にあるし、
沢山産んでるっぽいから、。
 
一人の妻に、一度に10人生んでとは言えないもの、。
当時は、、育児は手仕事、、食べ物集めも、水汲みも、
衣服を縫うのも、、パンの粉を作ることも、、作物の収穫、
洗濯も、全部、人の手でしないといけない、。
 
ノアの家族以外、、みんな洪水で滅び去ったわけで、
使用人も誰もいないわけだから、、、
 
アダムとエバのときと同じで、
家族で親子で助け合いながらになるから、。
 
栄養事情や、病気などで早くに成人前に
死んでしまうことも在るわけだから、
多くの子を生み育てる必要性があったから、
一人の夫に一人の妻じゃ、体力的に無理でしょう、。
洪水後は、ノアとノアの子である1代目は、、
それぞれの連れ合いだけで、
しょうがないとしても、彼らの子の、2代目以降は、、
 
1世代目が後から産んだ自分の他の兄弟の娘や息子もいるし、
自分たちが産んだ娘や息子が産んだ子も増えていくから、
イトコ同士、母違いの子同士で、娶れば良いので、
十数年後には、選択肢は増えたと想う、。

マグダラのマリア



 

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2019年02月26日 (火) | 編集 |
悔い改めるから赦されるのだけど、、
赦されたいから、、悔い改めるのであって、。

先んじて、神様の赦しが、、存在しているから、、
自分の罪に気づいたときに、、人は悔いようとする、。

赦しが、、元から存在しないのなら、
悔いることはしないです、。

悔いて赦しを乞うべき相手が居ないのだからね、。
悔いようがない、。
人は、、何も聞かないうちから知らないうちから
神様が愛と赦しと裁きの権威を持つ御方だと知っている、。

だから、通常、罪を犯せば、罰が下ると想うし、悔いることもする、。
悪魔悪霊のそそのかしに乗って、、
このくらい良いだろう、、と罪に鈍感になっていくと、、
悔いることもしなくなるけれど、。

それは表面意識だけで、、
自己の魂は、肉体の死後、厳罰を自分自身に課す、。
神様に赦されて、赦しの実感、、
心の平安を与えられない内にこの世を去れば、、
人は天の国には行けないです、。

霊界で神様の御元に行くかどうかは 本人と本人の魂がが決めるからです。
罪が赦されていないと 自己の魂は自分で自分を裁き続けるので、、
修羅のような霊界、地獄にいきます。

そこが、、居心地がいいと想うから、、。
地獄を、、自分で、、望んで、自分で堕ちていく、。
神様が、地獄へ追い落とすわけじゃない、。

人をゆるせないで裁き続ける人というのは、、
赦しの実感がなく、自分の心に平安がなく、修羅の心だから、、
自分の荒れた心そのままに、、人を憎み批判し攻撃する、。

神様の、赦しと、恵みは、、言葉に形容し難いくらいに、、
ありがたく、、喜びがつきない幸せ感、。

罪が深ければ深いほど、、赦されたときの歓喜は大きく、、
神様に従いたいと想う気持ちは大きく強くなる、。
悪党ほど、善人に化けれる、。笑

罪の根っこは、イエス様に切り取られて、無いとみなされて、
イエス様なしで、、神様なしでは生きられない、。
神様に右、、と言われたら右に行くし、、
左と言われたら左に行きます、。

なんであれ、神様の言うとおり、。

イエス様は、、先に赦しなさい、、と御命令になっています、。
主の祈りから、。

わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

赦しましたように、、赦しました、と過去形なので、、
自分が赦されたいのならば、自分が先に人を赦さないといけません、。
自分が赦さないのなら、、悔いても何をしても赦されないのですから、、
自分が人の過ちを赦してのち、自分の犯した罪を悔いて、赦しを乞うのです、。

いくら悔い改めても、人を赦さず憎み裁いていたら、
自分の修羅の心そのままに地獄行きです、。

マグダラのマリア



 マグダラのマリア

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